2016年12月30日金曜日

ある年の年末のこと、

敬愛していたシナリオライターは、数えるほどしかいない。
その中のひとりが、松原敏春さんだった。
一度だけ新宿の行きつけの飲み屋でお会いした。
嬉しさのあまり度を超した酒で、ボクは愛用の万年筆を松原さんに渡した。
とにかく書きやすい万年筆で毎日持ち歩いていたものだが、軸の部分にガムテープが巻かれていた。
運転中にブレーキを掛けたら折れたからだ。


筆を折ると言う言葉を思い出したのは、家に帰ってからの事だった。


今でも、悔いることだった。
今でも、亡き、松原さんに、申し訳なかったと思っている。
あんなに、尊敬していたのに!


年末になると、必ず、思い出すことだ。

2016年12月15日木曜日

語り部について、

ぽっかりと穴の開いた時間を埋めるのは、ボクにとっては本を読む事だ。
映画ではない。
映画は、見に行くものだし、穴の開いた時間を埋めるものではない。
ボクは、若いころ、60過ぎたら、作家になろうと思っていた。
何の作家かまでは、決めてなかったが、とにかく、物を書いて過ごそうと思っていた。
60を2年ほど過ぎた今、その考えがいまだにあるのは、驚きだが、驚いたところで、物が書けるわけではないし、多分、ボクの理想のようなものなのだろうと、思っている。

去年は、仲代さんからの直接の指名が来て、朗読劇の演出と、時代劇の脚本を書いた。
20年、映画を作って来たので、シナリオライターとして、もの作りに参加するのは、20年ぶりだ。
朗読劇の方も、演出担当者がホンを直すのだと聞いて、やっと演出に専念できると思ったのに、またホンづくりに心血を注がなくてはならなくなり、他人のホンで、演出することは、もうできないのかも知れないと落胆した覚えがある。

書きたくないわけじゃないが、書くなら、自分の好きなように書きたい。
ひとにとやかく言われて直すのは、もう20年前にやめたはずだが、そういう訳にはいかない。
シナリオライターの宿命みたいなもので、第一稿だけが、勝負であり、自分の世界だ。

今、とある原作物のシナリオを書いている。
以前にも、原作をもとにしてシナリオを書いたことはあるが、自由に作り替えることが出来た。
エッセイだったり、自伝だったりしたからだが、ほとんど、オリジナルのシナリオだった。
もちろん、オリジナルシナリオの依頼も沢山あった。
しかし、今は、どうやら様子が違うらしく、原作物を脚色することが多くなった。

原作ものの脚色で思い出すのは、トリュフォーのことだ。
「突然炎のごとく」など、原作に忠実にシナリオを書いたと聞く。
ある時は、原作の本を現場に持ち込み、映画を撮ったそうだ。
地の文を巧みに、ナレーションとして使っている。

これは、やろうと思っても、なかなかできるものではない。
どうしても、自分の世界に引き込もうとする。
小説と映画は、違うと言う理屈のもと、作り変えてしまうのだ。
しかし、トリュフォーは、違っていた。
小説世界をなんとか、そのまま映画にしようとした。
それをやってのけたのは、トリュフォーだけじゃないか?
それほど、その小説にほれ込んだと言うことなんだろう。

脚色をする際には、そんな原作者へのリスペクトが前提にある。
リスペクトなしには、脚色は、なしえないと言ってもいい。

今取り組んでいるシナリオにも、それは当てはまる。
精読して、とにかく、作者の筆の動きまで、感じようとする。
しかし、それは、自分を捨てる行為でもある。
筆の進むままと言うわけにはいかない。

最近、とみに思うことがある。
それは、いかに、無私の境地に自分を置くかと言うことだ。
「私」なんて、なくったっていいと思えるか。
そこが、勝負だと。

どんなに、無私の境地に置いても「私」は、必ず、書いたものに出て来る。
そういう人がいるが、それを踏まえても尚、無私になれるかと言うことだ。
「私」は、出なくていいのだと断定する。
自分は、誰かの語り部で、いいのだと。

しかし、なかなかうまくは、いかない。
語り部に徹せられない。
どうしても、「私」が出て来てしまう。
むずかしい。

毎年、オリジナルのシナリオを一本は、書こうと思っていた。
もう随分前の話だ。
オリジナル脚本集なるものを、自主出版したこともある。
もう随分前だ。
今、また、そんな気持ちが募ってきている。
映画化できるかどうかはわからないが、とにかく、毎年、一本、オリジナルのシナリオを書く。
それが、来年からのテーマになりそうだ。
ただ、その際には、今まで果たせなかった、「語り部」の気持ちで、書くことを念頭にいれて書こうと思う。

ボクの場合、それほど先があるわけではなさそうだ。
だから、残された人生、誰か一人のために、書く。撮ることが、意義深く感じる。
語り部として。









2016年12月12日月曜日

Mさんのこと、

最近、ひとりでコーヒーを飲んでいると、Mさんのことを、思い出すようになった。
Mさんのことは、それまでも、年に何度かは、思い出すのだが、最近では、とみに思い出すことが多くなった。

Mさんとは、公務員(郵便局員)の時の、先輩後輩にあたり、同じ班に属していた。
配達区域も、同じ西新宿で、良く、配達場所を教えてもらった。
昼飯も、待ち合わせて同じ場所で食べた。
旨い店を見つけるのが得意なMさんは、西口会館にあったラーメン屋とか、ハイチと言うドライカレー屋とかを教えてくれた。
コーヒーも好きで、下戸のボクたちは、仕事が終わると、高田馬場の駅前の本屋の入っているビルの地下の喫茶店で、コーヒーを飲んだ。
そして、本の話や、映画の話をした。

勤めて、4年目に入ったころ、ボクは、志していた映画の道を進もうと、勤めを辞めることにした。
今になって思うと、随分と無謀なことをしたものだ。
何のあてもないのに、フランスに渡ったのだから。

同じころ、Mさんも、別の生きる道を見つけていた。
喫茶店を開くことだった。
Mさんは、仕事を終えると、青山だか、渋谷だかの喫茶店に行って、開業のための修業をしていた。

今では、あまり見かけなくなったが、その頃よく見た看板。
「美味しいコーヒーをどうぞ」
の看板。
店の売りは、深い焙煎のドリップコーヒーと、シフォンケーキだった。
店は、白壁で、太い梁が、何本も通っている、山小屋とも少し違う、シャレたもので、大体、クラシックが流れていた。
客は、女性がほとんどで、値段は、高めに設定してある。
それでも、そのての店は、結構繁盛していて、あちこちに、
「美味しいコーヒーをどうぞ」
の看板が出ていた。
系列店と言うことではないみたいだが、とにかく、沢山あった。

Mさんが、町田に店を開いたのは、ボクがフランスから帰って間もなくの事だったと思う。記憶違いで、Mさんの方が辞めるのははやかったのかも知れない。
いずれにしても、ほぼ、同時期にボクたちは、別の道を歩き始めた。

一度、ボクは、町田のMさんの開いた店に行ったことがある。
まだ、店を始めて、間もないころだった。
Mさんは、確か妹さんとその店をやっていた。
お決まりの、深入り焙煎のドリップコーヒーとシフォンケーキ。シフォンケーキには、ホイップされた生クリームがたっぷりのっている。
ボクは、コーヒー職人と化したMさんを少しだけ、羨ましく思った。
何しろ、ボクは、その頃、仕事にこそありついてはいたが、映画の道は、何一つ拓けてはいなかったからだ。

Mさんの店に行ったのは、その時、一度きりだった。
場所が、町田と言うこともあった。
気軽にコーヒーを飲みに行くのには、少し、遠い。
それだけではなく、ボクにも、意地みたいなものがあり、次に行くときは、ボクが映画の世界に身を置いた時だと決めていた。

しかし、それは、一向に訪れる気配は、なかった。
あれから、35年が経つ。
Mさんは、今、どうしてるんだろう。
気になったボクは、食べログとかで調べて、グーグルの地図で、検索してみた。
町田は、昔とは、大部様子が変わっていて、確かにここだと言うところにはいきつかなかったが、それらしき店を見つけた。
「近々、行ってみよう」
と、心の中では思っているが、なかなか実行に移せない。
実に歯がゆいのだが、Mさんのことを思うのが、真夜中で、ひとりきりの時間に、冷めたコーヒーを飲んでいる時なのだから、仕方がない。

ボクは、一日、一杯と言うコーヒーの制限がある。
良く判らないが、カリウムの問題らしい。
それでも、一日三杯は、コーヒーを飲んでいる。
朝のコーヒー。
昼のコーヒー。
そして、呑んだ後のコーヒー。
いつか、そのうちの一杯を、Mさんの淹れたコーヒーで、飲んでみたい。

喫茶店を出すのが、夢だったことがある。
店の名前は、「バルザック」と決めていた。
本で埋め尽くされた喫茶店。
そこで、探究者のようにコーヒーを淹れるのだ。
Mさんのように。

「きっと、逢いに行くからね、Mさん!」
そう呟いて、今日は、眠ろうと思う。
ボクのコーヒータイムは、Mさんの面影を追う旅でもある。

2016年12月9日金曜日

「冷え物」について、

多分、今では名前も知らない人が沢山いるだろう、小田実氏。
かつては、ベ平連を指揮し、政治的な人としてのレッテルを張られた人だったが、ボクと小田氏との出会いは、(勿論直接お会いしたわけではない)世界貧乏旅行記「何でも見てやろう」だった。
20代前半の頃で、難しい文章は、ボクにとっては、読みにくかったが、世界の広さに圧倒され、バイブルのように持ち歩いたのを、覚えている。
そんな小田氏と再会したのは、かれこれ、40年ぶり。
それも、聞いたこともない、「冷え物」と言う、小説だった。

「冷え物」は、同和問題に焦点を当てた小説だと言われている。
言われているだけでなく、小田氏自身も、はっまりとそう書いている。
しかし、ボクには、そうは読めなかったし、そう読むべきではないと思った。


それには、わけがある。
先月、佐賀県鹿島市で行われた、同和問題の講演依頼が舞い込んできて、
「同和の事は、良く知りませんが、人権については、少しは話せるかもしれません」
と、メールを打ち、
ボクの映画「日本の悲劇」の上映をしていただければとの条件付きで、講演依頼を受けたからだ。

同和問題に興味はあったものの、同和に関しては、そんなに話も持ち合わせていなかったので、あまり踏み込んだ話は出来ない。
映画と関連させての、「人権」の話だったら、言えるかなと思い受けた。

しかし、空港に着くなり、役所の担当者が迎えに来ていて、各地で、いまだに「同和問題」が、なくなってはいないことを知り、
ついては、少しだけでも結構ですから、同和問題に触れていただきたい。同和問題の講演ですからと釘を刺されてしまった。
また、えらいことを引き受けてしまったなと、思った。

この国だけではなく、「差別」の問題は、各国にあるんだと思う。
差別する側と差別される側。それだけの問題ではなく、差別された側も、また、差別する側に回っている現実。
それは、ボク自身にも、ある。

ボクの国籍は、日本人と言うことになっているが、遡れば、どこから先祖が来たのかはわからない。
埃をかぶった過去帳を見ても、何がなにやらわからない。
そんな日本人が、ボクだ。
かつて、「ルーツ」と言う自伝的小説があっったが、あのように明快でないのが、ボクだ。

そんな自分自身のルーツが判らない中で、人を差別するのは、自分で自分を断罪するようなものだと思っている。
しかし、ボクは、そんなに正しい人間ではない。
意識としての差別は、ボク自身の中にあったし、今でも、あるのかも知れない。

「同和問題」は、すなはち、自分自身の問題なのだと思うのは、今、この歳になってのことだし、少なくとも、20代の頃は、人を平気で、差別していたのではないかと思う。しかし、人を差別すると言うことは、自分もまた、差別されることだと思い知った。

最初に、そのことを感じたのは、20代後半に、フランスに行った時だ。
田舎町をふらついていて、空腹に、ホテルで食べられるようなものを探しに、小さなスーパーマーケットに入った時のことだ。
身ぎれいな老婆がボクを見て、蔑んだような目で見て、汚い言葉を浴びせてきた。

それまでボクは、人から差別されるなんて、考えてもいなかった。
しかし、日本人であるがために、差別されると言うことの現実を目の当たりにした。
それは、いままでのすべての価値観を変えてしまうほどの衝撃だった。

正直、辛かった。
多分、その老婆は、大戦で親族を亡くしたのかも知れない。
敵国のひとつが日本で、その恨みで吐いた言葉なのかも知れない。
「ボクが、起こした戦争ではないだろう」
とその時は、そう思ったが、自分が日本人である限り、それだけでは済まないこともわかった。

以来ボクには、日本人であることの誇りと同時に、負い目もある。
存在することの、肯定と否定。
それは、もともとコムプレックスの塊だったボクを、一層、神経質なものにさせた。
カフェに入って、コーヒーを飲んでる時も、誰かがボクの方を見て笑っているだけで、卑屈にうつむいた。
通り過ぎた人から、すれ違い様に罵声を浴びせられたこともある。

そんな色々なことを、帰国したボクは、すっかり忘れていた。
それが、たった一度の講演依頼を受けたがために、蘇ってきた。

講演のことは、このぐらいにしておこう。
とりたてて、自慢するほどのことでもない。ボクとしては、「日本の悲劇」が、沢山の人に観てもらえただけで、満足だ。反応も、悪くはなかった。

帰ってからのことだ。
ボクの中では、「同和問題」と言う言葉が、頭から離れずにいた。
「冷え物」と出会ったのは、そんなときだった。

凄まじいばかりの筆力で書かれたその本が、ボクを虜にした。
読み続けたくない本だが、読まずにいられない力があった。

いずれにしても、本や映画は、出会いだ。
「冷え物」を読んで、何かが芽生えたわけではないが、最近では、ほとんど出会うことのない、不完全な人間たちの葛藤が、展開されている。
そこに、息遣いのようなものを感じ、いまだに、記憶に残っていると、言うわけだ。

今では、恐らく、キンドルでしか読めない本だろう。
「冷え物」と出会うために、電子ブックに手を染める。
それがいい決断だったことを、願いたい、







2016年11月2日水曜日

新作 現場報告

去年の収穫が、ルメートル作品と同じか、それ以上に、T・R・スミスの作品だったので、今年は、この両者の新作を心待ちにし、他の作品には目もくれなかった。
なのに、なかなかな、新刊本が出ない。
たまたま今年の前半は、去年から作っていた脚本が、ようやく完成し、動きだし、もう少しのところで、映画にすることが出来ると言う状況だったので、何やら、心中騒がしく、おまけに、週に三度のクリニック通いはボクを十分凹ませてくれる。

んなものだから、上記の作家の新刊を待つことすらも忘れてしまっていた。
気が付いたら映画づくりの方が、メインになっていった。
いつもそうだが、読みたい、観たいと思っている時に限って、映画の制作が始まる。

ものづくりは、第一印象が大事で、あれもあるこれもあるじゃ、なかなか決まらないし、鮮度も落ちて、飽きがくる。
それに今回は、シナリオの通り撮ると決めたので、余程のことがない限り、直さないようにした。
結果的には、何度か直したが、決定稿まで。
印刷した台本には、手を入れていない。
だから、やるべきことは、スタッフ集めと、ロケ場所を決めることが、ほとんど。
だから、本を読む時間は、充分に取れた。
読む気になりさえすればだけど。

以前、テレビのシナリオを書いていたころ、スタジオを見学させていただいたことが、ある。
その時のディレクターは、サブ(副調整室)で、階下のスタジオでの役者の芝居をみながら、暇があると、ミステリーの文庫をひろげていた。
「本番!」
の声を掛けた途端に、文庫本を読んでいる時もあった。
それを後ろから見ながら、ちょっと驚いたことがあったが、ボクには、そんな真似は、出来ない。
なんだか知らないが、準備の一番初めから、その映画のことしか考えられなくなってしまい、他のことは、手に着かない。

映画作りにトラブルは、つきものだと言うが、準備期間にちょっとしたトラブルがあったぐらいで、撮影は、順調に進んだ。
奇跡的なほどだった。

撮影中も、クリニック通いは必要不可欠だったので、ロケ場所の近くにクリニックを見つけて、週に三度、診てくれとの確約を貰った。
クリニックに行く日には、撮影は、遅くとも5時には終わらせなければならないと言う、嫌な条件がついたが、それも、二、三度経験すれば、なんとかなることがわかった。
もしその日行けなかったとしても、直ぐに死んでしまうと言うことはないのだろうけど、行かないわけにはいかない。
だから、毎日、クリニックに行くことを優先して、助監督にもスケジュールを組んでもらっていた。

その日は、無事、撮影が終了して、クリニックに向う。
そして、いざ治療となる。
ところがだ。
治療中のことまでは、考えに入れてなかった。

血圧が異様に高くなってきて、このままでは、処置ができないほどになったのには、驚いた。
看護士さんたちは、血相を変えて、五分おきぐらいに血圧を測りに来るのだが、気持ちが動揺していて、血圧の方はどんどん上がるばかりだ。
200を超えたあたりから、周りが騒がしくなり、
「頭、痛くないですか?」
とか、
「苦しくないですか?」
とか聞いてくる。
おまけにそのクリニックの規定として、血圧が180を超えると、治療を一旦停止しなければならない、きまりがあるらしい。
危険だからだ。
ならば、それで帰れるのかと言うと、そうもいかないらしい。
ある程度、血圧が下がらなければ、動くことも出来ないのだ。
帰るに帰れず、そこで治療を続けることもできないと言う、かなりの苦境に立たされてしまったのだ。

それでも何とか、東京のクリニックに連絡をとってもらったり、処方してもらった降圧剤を飲んで、血圧を180以下に落として、時間中に治療を受けることが出来たのだが、ボクの緊迫感と言うものは、相当なもので、翌日の現場での撮影のこともあるしで、ある覚悟はしていたものの、このまま、眠り続けるか、それとも、治療が終わり帰るときになって、卒倒して意識不明になるかの、瀬戸際にいるようで、次の日のコンテのことなども、曖昧なままにするほかはなかった。

しかし、その曖昧なままにしていたことが、幸をなしたのかもしれないことも、いろいろ起こり、スタッフが、機敏に、ボクにかわって動いてくれたおかげで、作品の撮影はどうにか、終了することが出来た。

もともと、自分一人で、何もかも決めて映画を作ってきたところがある。どんなに小さなことでも、自分がかかわらないと、満足しない。
だから、今回のように、人に任せる映画作りは、したことがなかったのだが、編集が完成したものを見ると、ボクの映画になっているともいえるし、何か中途半端なところで妥協しているようにも見える。

でも、そもそも、中途半端なところで妥協するのは、ボクの持ち味のようなものなので、そのまま引き継ぎ、編集など、仕上げ作業で、その中途半端さを大事にしていければいいと思っている。

「日本の悲劇」のようにせっぱ詰まった緊迫した密室の中で展開される映画ではないので、あるところで、イージーさも大事だ。
オールロケの特色を生かして、その場で思いついたアイデアをどんどん取り入れて撮影したが、編集には、悩まされっぱなしだった。

そんなわけで、撮影は終わったのだが、今度は、仕上げだ。
編集を担当した金子さんが、ボクのことを思ってか、あるいは自分の都合でか、日曜日にしか編集をしくれないので、ボクは、次の一週間に向けて、ああでもない、こうでもないと葛藤を繰り返し、
しまいには、半ば、うなされるようになっていった。
自分で編集をしていれば、そんなこともないのだろうが、ボクは、編集は出来ないし、やりたくないのだ。

現場を終えて、血圧は、まあまあ安定してきたが、今度は編集が、重責になってきて、控えてるカラコレも、何か波乱が起きそうな予感がした。
そればかりじゃない。
バレ物隠しが、沢山あるのだ。
こんなことは、フイルムの時代には、考えられなかったことだけれど、それだけ現場に,シビア―さがなくなったと言うことなんだろう。
いくら役者に長いワンカットを要求して、緊張を強いても、スタッフに、緊張感がなければ話にならない。この辺のことは、次回の課題だが、果たして次回があるのかどうかもわからない。

と、いう訳で、仕上げは、ボクの意図と反して、なかなかな終わらない。
そんな頃に、ルメートルの新作か出たとの情報を得た。
キンドル版で買い、読もうと思っているが、まだ未読。
これをいつ読もうか?
難しい所だが、何かが終了した時がいいだろうと思っている。
となると、映画の完成したころか?
そんなことを考えていたら、ふらりと入った書店で、新たな作家の本と出会った。
その本は、アイスランドの作家のものだが、文学的な表現をもって書かれたミステリー小説で、続けざまに三冊を読破。
今、制作中の映画とは、まったく世界の違うものだが、それが幸を成したのか、数日間は、夢中になって読めて、映画のことから、離れることが出来た。少し、客観的になれたのは、この本のお蔭だ。
今になってようやく、あの時のディレクターの気持ちが、判ったようだった。


さて、いよいよ、仕上げも最終段階に入ろうとしている。
緊張は徐々に高めているつもりだが、いつものように、出来ることしかできないのスタンスは、大事だ。
それと、自分の思う様に映画を完成することだ。
ここまでくると、誰の遠慮も要らなくなる。

決戦と言うと、何か物々しいが、私との決戦だ。
自分自身との。

いろんな発表は来年になるので、ボクの方からは、それ以上のことは言えないが、ちょと今まで、観たことのないような映画になるんじゃないかと思う。
ご期待いただければ幸いだ。


2016年1月4日月曜日

新年の抱負のようなもの、

今年は、何もしないで新年を迎えようと思っていた。
何もしないというのは、初詣とか、もろもろ新年にまつわる行事で、別に、何か理由があるわけではなくて、二日から、もう、クリニック通いが始まったので、ボクの場合は、新年も何もないからだ。
新しい年になったからって、特別、何かが変わったわけでもないし、変わるわけでもない。
新しい年になって、今年こそという気持ちは、あるにはあるのだが、まずは、昨年のことを振り返らないと、今年のことは、なんとも、決めようがない。

というわけで、昨年だが、仲代さんの関係の仕事が、舞い込んできて、リーディングの舞台を演出したのと、「果し合い」という藤沢周平さんの原作を脚色したのと、あとは、オリジナルのシナリオを一本書いたぐらいで、あとは、なんとなく過ごしていた。
もう一本ぐらい、ホンを書こうと思っていたが、書けなかった。
年末に、前から考えていた企画のことがあたまをもたげて、若い人に企画書のようなものを書いてもらったが、まだまだの感。
もうひとつ企画があるのだが、こちらは、まだ文字にするわけにはいかない。
もう少し、時間が要る。

そう。
時間が要ることばかりになってきていて、いくら時間があっても足らない。
おまけに、体力がなくなって、すぐに疲れるから、寝てばかりいる。
これでは、何も進まない。

去年ほど、映画を観ない年はなかったんじゃないかというぐらい映画を観なかった。
映画を作るのが、ボクの仕事のはずが、映画を観ないなんてけしからんと怒る人もいるだろうけど、映画を作る人で、ほとんど映画を観ないという人は、意外に多い。
観なくて済むなら観なくたっていいのかも知れないが、一本でも多くと思っている人間にとっては、何だか、変だ。
では、さぞ、つまらない一年だったろうと思うかもしれないが、これが、何とも、不安を掻き立てて、スリルのある、刺激的な一年だったのだ。
たまには、映画から離れてみることも必要だなとか、このままでいいのかとか、思いは錯綜するが、意図して、映画を観ない日をつづけた。

観たい映画があまりなかったというのもある。
ちょっとこれは観ておかないとなと言う映画がない。
意図が、わかる。
観る前からわかる。
そんな映画ばかりで、それは、映画がつまらないのではなくて、宣伝なんかが、月並みで、意表をつくことをしないのが原因でもある。
あとは、タイトルだが、あまり観たいなと思うタイトルに巡り合わない。
似たようなタイトルばかりで、新鮮味がない。
『百円の恋』なんて、いいタイトルだなあと思ったし、内容も、かつてのアメリカB級映画の匂いが立ち込めていて、観たいなとは思ったが、沢山の人が詰めかけてると聞いて、何だか、嫌になった。
お客さんが沢山来れば、それは映画としては成功なんだけど、このテの映画は、話題にもならないからいいのであって、『ロッキー』と『ロンゲスト・ヤード』の違いみたいなもんで、作り手は、『ロッキー』を狙うんだろうが、『ロンゲスト・ヤード』のほうを期待してしまう。
今の、この時代だから。浮かばれない映画にシンパシイを感じる。
だから、そのうち観ようとは思っているが、まだ観てない。

最近思うが、ボクのシンパシイの感じ方と、一般のお客さんのシンパシイの感じ方の違いというのは、完全にかい離しているようで、こんなことを書くと、来る仕事も来なくなるので、書かないほうがいいのだけれども、地味が、美徳の時代は、終わったのかも知れないとも思う。
地味が、売れない、当たらないは、当たり前だが、だからと言って、作られないというのは、ちょっと変だ。
作り手に、そういう人がいなくなってしまった。バカがいない。
そんな風にも思うのだ。

作り手も役者も、みんな自信を持っていて、迷いがない。
どうして、こんなに堂々と作れるんだろうかと、つい思ってしまう。
タイトルからして、自信満々が伺える。
そういうのは、ハナから観ない。
もちろん、映画は決めていくものだし、決めなきゃ、映画は永遠に作ることができないのだが、その前に当然あるはずの、長い迷いの時期が、ない。
だから、薄っぺらで、話だけで、映画が終始する。
それをまた、良しとする輩が多いから困ったことになる。

霞を食って生きてるわけじゃないし、養わせなきゃならない家族もある。
迷ってばかりいて、ああだこうだと御託を並べても、飯がテーブルに並ぶわけじゃない。
稼がなきゃいけないから、稼げる映画を作ろうとする。
それは、別にいいし、ボクも、嫌いではないが、ちょっと待てよ、というのが欲しい。
そのちょっと待てよがないと、まずいのだ。
わからないかも知れないが、わかる人もいるはずだ。
ちょっと待てよ。
この感覚だ。
米櫃が空になるまで待てるかという感覚。
空になっても、待てるかという感覚。
ハナから、米櫃の心配などしていないのもいるが、そんなのは論外なのだが、やはり、ギリギリがいい。
ギリギリでの、選択がいい。

そんなわけで、今年は、ギリギリだ。
ギリギリでも、迷ってやろうと思う。
ま、抱負といえば、これぐらいか?

毎年、一本の映画を作る。
それが、ボクの長年の決意だった。
それが長編を、四年も作っていない。
そろそろだが、そんなに簡単には、腰を上げない。
第一、体力がなくなって、なかなか腰が上がらない。
もったいぶってるわけじゃない。
迷ってるのだ。
迷い続けているのだ。
楽しんでるわけじゃない。もがき苦しんでいる。
でも、まだ迷う。
ギリギリまで、迷いたい。
でないと、自分で、自分が許せない。そんな気がする。

2016/01/04








2017年の事、そして、18年に向けて、

一昨年に撮影、完成した「海辺のリア」の公開が、6月となり、(これは、完成する前から決まっていたのですが)それまでは、新作のことも考えずに、ただ漫然と公開を待つ日々を送っていました。 映画が完成してしまい、初号試写が終わってしまうと、奇妙な空気が漂い始めます。 何かを始めように...