2015年12月9日水曜日

してはならないことをするということ、

特に、これと言って書くことがない。
読み続けていた本も、ルメートルの「天国でまた会おう」を最後に、止まってしまい、再開する見込みがない。
今まで翻訳されたルメートルの本は、全部読んだ。
それも、かなりのピッチで。
取りつかれたように読んだ。
その前は、TRスミスの「チャイルド44」に始まるシリーズ。
そして、「偽りの楽園」。
どれも読んでいて、新鮮だった。
新鮮なんて言葉を使うのが、何だか照れくさいのだが、本を読んで、その世界が新鮮に思えたことなんて、そうはない。
古臭かったり、妙に斬新だったりするが、どちらも、次に来るのは、「退屈」の二文字。
はじめから主人公に共感もできないものもある。
読んで、普通と思うのは、まだましだが、投げつけたくなるようなものもある。
そんな中で、それほど期待せずに読み始めた、「チャイルド44」。
驚いたなんてもんじゃない。
面白くて、面白くて、ページを置くことができない。
小説というジャンルの進化形をみたというか、何なのだろう、あの感覚は。
ひねりが利いていて、映像的。
それまで、あまり良しとされて来なかった、映像的という言葉が、最もふさわしく、この小説にとっては、最大の褒め言葉だ。
かつて、ボクは、数十年前に、
映画を作るように歌を作っていたことがある。
映像を浮かべて詞や曲をつけていくだが、ある時からそれをやらなくなってしまった。
それは、してはいけない雰囲気があった。
あまり、認めてもくれなかった。
映画は映画。小説は小説。歌は歌。
みんな分かれていた。
シナリオのような小説があってもいいと思ったが、書き続けることは不可能だった。
書いても、認められなかったからだ。
映像に出来ないようなことを書くのが小説だと言われていた。
絵を浮かべて書くのは、御法度の時代があったのだ。
それは、日本の小説を読んでいると、いまだにある。
自制が定まらなかったり、場面が明確ではなかったり、事実に即してなかったり、飛躍が全くなかったり、ただただのんべんだらりと書いているだけで、何ら面白みのない。
それが純文学で、芥川賞受賞作だったりする。
飛ぶように売れているものもある。
映画化が進行しているものもある。
しかし、何か、空しい。
例えそれが映画化されても、観てみたいと思ったこともない。
いや、ないことはないが、観ても、小説とは全くかけ離れた展開だったりするから、それだったら、小説を読んでいたほうがいいし、映画にするのは、ベストセラーだからであって、その小説が、映像的だからというわけではないのだから、映画用に書き換えなくてはならない。もう、その行為自体に、懐疑的にならざるを得ない。
別に、作品に対するリスペクトがあるわけではない。
ただ、金にしたくて作っているだけなのか、金が出るから、作っているだけなのか?
よくぞ、これを映画に作り直したなんて、絶賛する人もいるが、元の小説のほうがはるかに良いことのほうが多い。

しかし、TRスミスの小説は違っていたし、続けて読んだ、ルメートルの小説も違っていた。
あるものは、シナリオをそのまま、小説にしたのではないかと思うことすらあった。
それの何がいけないのか?
そんな提示をしているように思えた。
途端、今まで読んだ小説が色あせていく思いがした。
見事な場面転換は、見事な章転換となる。
目に見えるような、キャラクター作り。
緻密さと同時に、書くことの喜びを味わっているだろう、即興的な筆致。
何もかも、新しい。
ひねりが利いている。

時代は、ようやく、このように、映像と深く結びついた小説を受け入れるようになったのだ。
これはうれしいことだが、ちょっと悔しい気もしないではない。
40年前には、おそらくあり得なかったことだろうから。
小説は、映画に屈してはならない。
映画化できない小説。これが、大事であり、尊いとされてきたからだ。
その考えは、日本だけにとどまらず、フランスやアメリカにもあったのではないか?
オリジナリティーがあるのだから、ノベライズとも違う。
小説の中だけで、完結しうる映像的作品。
それが、多数の読者を獲得したのだ。
市民権を得たのだ。
ボクはまだ、このテの書き手を、この二人しか知らないが、これから無数に出てくるに違いない。
それも、同時多発的に全世界から。
ボクも、久しぶりに、読書を期待をもって取り組むことが出来そうだ。
何せ、人物描写は小説のほうが優れているのだから。
時間を気にせず、書き込むことが出来るのだから。

2016年は、そういう意味でも、期待の年だ。
旧態依然とした小説というジャンルから、新しい作法が生まれ、認められ、ヒットする。
そういう時代がくるのかも知れない。
それは、また、映画でも同様のことが言えるだろう。
では、映画は、これからどこへ行くのだろう?
それは、映画の作り手、ひとりひとりが、問い詰めていく課題だろう。
少なくとも、ボクが書くことではない。

2017年の事、そして、18年に向けて、

一昨年に撮影、完成した「海辺のリア」の公開が、6月となり、(これは、完成する前から決まっていたのですが)それまでは、新作のことも考えずに、ただ漫然と公開を待つ日々を送っていました。 映画が完成してしまい、初号試写が終わってしまうと、奇妙な空気が漂い始めます。 何かを始めように...