2014年12月17日水曜日

12/15

先日、渋谷に行った。
渋谷に行くのは、久し振りで、確か、『日本の悲劇』の公開時以来ではないだろうか?
しかも、そのころは、歩いてユーロスペースまで行くのがやっとで、まわりを見ることも出来なかった。
今、前よりも体調が良くなって、人並みに辺りに目をやり、町の様子を観察できるぐらいになってきて、この町の変わり様に愕然とした。
町が変わったと言うよりも、人が変わったように感じた。

渋谷へ行ったのは、試写を観るためだった。
『仲代達矢 役者を生きる』と言うタイトルの映画を、アップリンクで、観る。
それが目的だったから、JRから降りて、試写場まで行くだけの事だから、あちこちを散策したわけではない。
それでも、道行く人の変わり様は、判った。
怖くて、道を歩けないなと思った。
それぐらい恐怖感を覚えた。

飯塚秀孝監督の『仲代達矢 役者を生きる』は、舞台「授業」に取り組む仲代さんを追ったもので、彼の芝居に向けての鬼気迫る準備段階がおもろかったが、ドキュメンタリーとしての価値よりも、仲代さんのある時期を記録したものとしての価値の方が大きいように感じた。
ドキュメンタリーの一翼としては、充分成立しているには違いないが、物足りなさも、なくはなかった。
ボクだったら…と、いつも思う。
ボクだったら、どう撮ったろうか? と。
しかし、あまりその先は考えないようにした。
「おれのドキュメンタリーは、一本だけでいいんだよ」
と、以前、高田渡さんに言われたからだ。

実際、仲代さんと言う人を、それほど良く知っているわけではない。
もちろん二本の映画に出演していただき、親しくはさせていただいている。
しかし、だからと言って、役者と監督と言う立場での親交であり、それ以上は、踏み込まないし、踏み込んでほしくもないだろう。
だから、ボクに、仲代さんのドキュメンタリーは、撮れないと思う。

どこかドキュメンタリーと言うものは、対象となるものを暴くと言う使命があるように思う。
その暴き方に、作り手と対象となる人物との親密度が、現れる。
『仲代達矢 役者を生きる』には、その親密度がはかれない、寂しさがある。
かつてNHKで放送した仲代さんのドキュメンタリーがあったが、スタンスとしては全く似たスタンスだった。
付かず離れずと言うか…。

映画を観て、外に出た。
JRまでの道がひどく遠く感じた。
また、あの人ごみの中を歩くのか…。
嫌な感じがした。
だから、早々に、地下にもぐり、地下鉄で、帰宅することにした。
帰宅と言っても、地元の飲み屋に立ち寄って、焼酎を一杯、ひっかけての帰宅だが。

焼酎のロックをちびりちびりやりながら、考えは、また先程見た映画に向っていた。
インタビューの中で、「仲代劇堂」を作ったのは、62歳の時だったと言っていたことを思い出し、俺もまだやれるかもしれないと思ったり、喘息の持病から、酸素吸入器をつけている姿などをためらいなく晒す仲代さんに、随分経ってから、感激と言うか、感動が、じわじわと襲い、酒の力も手伝って、涙がこぼれて来た。

「継続は力なりだ」
は、『歩く、人』の時に、緒形拳さんに言ってもらったセリフだが、まさに、継続は力なりなのだ。
誰もが、仲代達矢になれるわけではない。
いや、どんなに継続しても、仲代達矢には、なれはしない。
彼になるには、凄まじいばかりの努力が必要だ。
それにもちろん才能も。
そして、運も。知性も。

しかし、「継続は力なり」を信じて、努力し、続けていさえすれば、運や知性は、きっと身につくに違いない。そうすれば、仲代さんにはなれなくとも、あなたのなりたかった人に、近付くことは出来るかも知れない。
それだけは、信じていいのではないか。





2014年12月12日金曜日

12/11

最近、また、一日一本ぐらいの割りあいで、映画を観ている。
東京国際映画祭は、あいにく行くことが出来なかったが、東京フィルメックスには、何回か、行った。
ボクは、映画を作っていながら、監督の名前がなかなか覚えられず、それは、歳のせいとか、ぼんやりとした毎日を送っているせいとかいろいろ原因はあるんだろうが、イランの巨匠とギリシャの巨匠の名を混同してしまったりする。
ツァイ・ミンリャンとジャ・ジャンクーも、顔を浮かべれば判るのだが、映画の題名だけだと、どちらの監督作だったか、立ち止まって、頭を整理しないと、口から出た名前が、逆の人の名前だったりするから、危ない。
その日は、オープニングの日で、塚本晋也監督『野火』を観てから、もう一本、ジャ・ジャンクー監督のドキュメンタリーがあったよなあと思い込んでいて、受け付け近くに立っていた、Iさんに「これからやるジャ・ジャンクーの映画、観たいですが、見られますか?」なんて聞いてしまった。「ああ、ツァイ・ミンリャンの『西遊』ですよね。でしたら、こちらで、IDカードを提示していただければ」と言われて、「はい、そうです」とかと、答えてしまい、チケットを受け取り、まじまじと見て、間違っていたことにようやく気付いた。
ツァイの映画は、ずっと見て来たし、彼の変遷する様を、ある種、驚きをもって見て来たのだが、どうも今回のは、あまり見る気がしなかった。
それが美術館から依頼されて作った映画だからだ。
いわゆるアートである。
アート系とかとは違う趣きなのは、歴然としている。
チケットと交換はしたものの、どうしたものかとしばらく考えたが、見ることにした。
これもいい刺激だろうと思ったからだ。

映画は、予想通り、アートだった。
ワンカットが延々と続く。
そこでは、僧侶の衣裳をまとった男が、超スローモーションで歩くのだが、それ以上のことは起こらないし、それ以下のことも起こらない。
面白いも面白くないもない。
ただ、少なからず、ボクは、動揺し、衝撃を受けた。
ツァイの映画に対する姿勢、向き合い方が、これほどまでに、突き詰められたことにだ。
確かに、この映画は、観て楽しむ映画ではないし、考えさせられる映画でもない。
感じる映画であり、思索にふける映画なのだ。
そして何よりも、マルセイユの街の、あちこちが、ドキュメンタリーのように、定点観測されていくのには、唸った。

そもそも、映画にストーリーは必要なのか?
それは、若いころ、抱いた疑問で、それは映画を作るようになってからも、ずっとボクの中に疑問として、とどまっている。答えは、見つからない。
ただボクは、ストーリーに感動して、映画を作りたいと思ったわけではなく、映画の中のワンカットや、構図、延々と交わされるわき道の会話に、今まで観たこともない、映画体験をし、ボクにも出来るかも知れないと思い、作っている。
しかし、それは、様々な事情で、なかなか思うようには実現できてない。

映画はストーリーだ。
話が面白ければ、それでいいんだと、割り切れれば、ボクの映画も少しは変わっていくだろうし、お客さんも、もっと増えるに違いない。
一般のお客さんが、その映画のワンカットに、戦慄したりはしないだろうし、ただの街角の日常風景を延々と見せられても、何を映してるんだと、腹が立つばかりだろう。
しかし、なかなかストーリーテリングに徹しきれない。
それは、ストーリーが巧く作れないと言うのが、正直なところだ。

ツァイの映画作家としての突き詰め方には、頭が下がる思いだ。
その日は、深くうな垂れながら、帰宅したのを覚えている。

数日後、まだ『西遊』のことが頭から離れないボクは、キム・キドクの『ONE ON ONE』を観た。
キムも映画作りにおいて、独特の変遷をたどっている。
前作の『メビウス』で花開いた感のあるキムだが、この映画も、凄まじい開き直りに、圧倒された。
数年前までのキムには、まだ、映画を信じているような、観客と自分とをつなぎとめてるものがあったのに、この映画では、それが見事に断ち切られている。
礼儀正しいキムが、インタビューやQAで、どんなにへりくだろうと、映画は、徹底して荒々しく、ふてぶてしい。
映画は消耗品で、排泄物だとも言わんばかりだ。

これには、多分、デジタル化が大きく影響しているのではないかとボクは思う。
言い方を変えれば、フイルムからデジタルに変わって、映画は、すでに、映画ではなくなっていると言う事を、彼は、痛感しているんだろう。
かつての情緒は、そこにはない。ただただ、荒々しく、情け容赦なく、荒唐無稽の先にあるリアルに向って突き進む。
ツァイとは真逆の方法論だが、変遷の仕方は、良く似ている。
つまり、突き詰めると言う事だ。
この映画を観て、最初に感じた腹立たしさは、自分に向っている腹立たしさだ。

この二本の映画を観て、これほどボクの心に深く突き刺さった経験はないだろう。
何をやってるんだ、お前は!
そう繰り返し、呟く。
それだけだった。

映画祭の最終日に、目当てだったウォルター・サレス『ジャ・ジャンクー・フェンヤンの子』と言うドキュメンタリーを観た。
まだ完成版ではないとの断りの元、映画は始まった。
ここに描かれる、そして、現在のジャは、44歳だと言う。
キムとは違った形での、ふてぶてしさを内存したこの監督の素顔は、終始とても優しく穏やかだ。
この映画が最後で良かったと、胸を撫で下ろした。
まだ、映画を信じてる作家が、そこにいた。
いつ壊れて行くのか、それはわからないが、形作られたものは、壊すか、壊れて行くかしかないようだ。
壊すまい壊すまいとしても、壊れていく。
繋ぎとめる術はない。
しかし、映画を形成し、壊すことが出来るのも、限られた人たちの特権であり、それは、才能だ。
どうやら映画には、作り手の自分さえもあらぬ方向に引っ張っていく、なにか、得体の知れない、魔力が潜んでいるように思う。




2014年12月5日金曜日

12/04

あっと言う間に、師走に突入した。
本当に、あっと言う間だった。特に、今年は。
今年の1月6日、ボクは、60になった。
還暦である。
気が付いたら、還暦。そんな気持ち。
そして、ボクの定期的な病院通いが始まったのも、その少し前からだった。
人生が変わった。
そのころはとっくに死んでしまっているだろう、次の年のことなんかを、ぼんやりと考えて、感慨にふけっていた。
でも、今、まだボクは生きている。
来年も、ボクは、生き続けるのかもしれない。
死ぬ兆候が、表れたはずなのに、そう簡単に殺してなるものかと、救命策を施して、ボクは、生かされている。

昨夜、家人と話した。
「そう言えば、映画の公開もなく、映画の制作もなかったのは、今年が初めてじゃなかったかな」と。
家人は、ノートを取り出して、ボクがデビュー作を作り、知人の勧めで、作った会社「モンキータウンプロダクション」の創設の頃からの年表のようなものを見て行った。
「ほんとだ」
何ページかのその年表のページを一年一年確認してから、家人が言った。
「今年が、初めて」
「だろ?」

ちょっと、戦慄した。
何をやってるんだと言う気持ちになった。
でも、それとは反対に、やっと一年、休めたと言う気持ちもあり、仕方のないことだとも思った。

一本目で、賞を貰い、二本目がカンヌで掛かって以来、一年に一本は、映画を撮ると自分に誓いを立てた。
でなければ、映画監督として生きてることにはならないと思っていた。
あくまで、映画作りは、仕事であり、事業なのだと。
とにかく企画を生んで、シナリオにし、制作する。
それも、最低、一年に一本は。

そして、それを実行に移していったはずだった。
しかし、公開まで手掛けなくてはならないボクにとって、一年に一本の映画制作は、不可能だと知った。
その年、映画を作れば、公開は早くて、次の年の、中頃になる。
全国での公開が終了するまでには、半年近くは掛かる。
幸か不幸か、大ヒットした映画は、ボクにはない。
だから、何年もその映画に引っ張られることはない。
その代わりに、自転車操業に近い。
映画を製作して、公開し、終わった途端、次の企画を考えて、シナリオにする。
どうしても、企画が浮かばない時は、書き溜めていたシナリオで、スポンサー探しをする。
スポンサーが見つからない時は、自主制作となる。
様々な不安が去来する。
果たして、これでやって行けるのか?
これで、採算がとれるのか?
深夜に、酒をがぶ飲みして、半ば、強引に、制作に踏み切る。
決めたんだから、作るんだ!
と自分に何度も言いきかせる。

キャストが決まり、スタッフが決まると、もう後には、引き返せない。
あとは、前に進めるだけだ。
他には何もない。

こんなことの繰り返しで、18年間を過ごした。
いや、17年間。
しかし、今年は、何もしていない。
今年も、あと残すところ、ひと月もない。
「今からなんて、とても無理だよな」
と、家人を前に、言葉にはしなかったものの、自分に言った。
「いや、出来るかもな」
と、カレンダーを睨む。
そのカレンダーには、仕事以外の、プライベートなことまでも書かれていて、その隙を縫って、映画を作るなんてことは出来そうもない。
でも、出来るような気持ちにもなる。
少し、興奮した。
それでも、やろう! 
というところまではいかなかった。
「うん。良いんだ、今年は。今年は、一年、休むと決めたんだから」
と、自分に念を押した。
ずっとボクなりに突っ走って来たんだ。今年一年は、休もう。頭の中を真っ新にして、来年に備えよう。

今年の初めに考えたことを、この日も、考えた。
そして、家人との話し合いは終わった。

残った、ひとりの時間はいつものように、机に向った。
アイデアの書かれたメモが散乱する机に向い、来年の事を思った。
長い間かかっていた雲が、気が付くと晴れて消えてしまっているような気がした。
この長い雲の間を、一体、どれくらいの間、歩いては立ち止まり、また、引き返しては、立ち止まり、してきたのか?
暗中模索と五里霧中と言う言葉が同時に出た。
ボクにとっては、同じ言葉のように感じた。

ツイッターで、岩田宏さんが亡くなったことを知った。
「同志たち、ごはんですよ」
の分厚い単行本のことを思い出す。
「そうだよ、まずは、ごはんですよ」
明日も、早く起きるだろう。
明日、ご飯を食べてから、来年の事を、ゆっくり考えることにしよう。






2017年の事、そして、18年に向けて、

一昨年に撮影、完成した「海辺のリア」の公開が、6月となり、(これは、完成する前から決まっていたのですが)それまでは、新作のことも考えずに、ただ漫然と公開を待つ日々を送っていました。 映画が完成してしまい、初号試写が終わってしまうと、奇妙な空気が漂い始めます。 何かを始めように...