2014年12月17日水曜日

12/15

先日、渋谷に行った。
渋谷に行くのは、久し振りで、確か、『日本の悲劇』の公開時以来ではないだろうか?
しかも、そのころは、歩いてユーロスペースまで行くのがやっとで、まわりを見ることも出来なかった。
今、前よりも体調が良くなって、人並みに辺りに目をやり、町の様子を観察できるぐらいになってきて、この町の変わり様に愕然とした。
町が変わったと言うよりも、人が変わったように感じた。

渋谷へ行ったのは、試写を観るためだった。
『仲代達矢 役者を生きる』と言うタイトルの映画を、アップリンクで、観る。
それが目的だったから、JRから降りて、試写場まで行くだけの事だから、あちこちを散策したわけではない。
それでも、道行く人の変わり様は、判った。
怖くて、道を歩けないなと思った。
それぐらい恐怖感を覚えた。

飯塚秀孝監督の『仲代達矢 役者を生きる』は、舞台「授業」に取り組む仲代さんを追ったもので、彼の芝居に向けての鬼気迫る準備段階がおもろかったが、ドキュメンタリーとしての価値よりも、仲代さんのある時期を記録したものとしての価値の方が大きいように感じた。
ドキュメンタリーの一翼としては、充分成立しているには違いないが、物足りなさも、なくはなかった。
ボクだったら…と、いつも思う。
ボクだったら、どう撮ったろうか? と。
しかし、あまりその先は考えないようにした。
「おれのドキュメンタリーは、一本だけでいいんだよ」
と、以前、高田渡さんに言われたからだ。

実際、仲代さんと言う人を、それほど良く知っているわけではない。
もちろん二本の映画に出演していただき、親しくはさせていただいている。
しかし、だからと言って、役者と監督と言う立場での親交であり、それ以上は、踏み込まないし、踏み込んでほしくもないだろう。
だから、ボクに、仲代さんのドキュメンタリーは、撮れないと思う。

どこかドキュメンタリーと言うものは、対象となるものを暴くと言う使命があるように思う。
その暴き方に、作り手と対象となる人物との親密度が、現れる。
『仲代達矢 役者を生きる』には、その親密度がはかれない、寂しさがある。
かつてNHKで放送した仲代さんのドキュメンタリーがあったが、スタンスとしては全く似たスタンスだった。
付かず離れずと言うか…。

映画を観て、外に出た。
JRまでの道がひどく遠く感じた。
また、あの人ごみの中を歩くのか…。
嫌な感じがした。
だから、早々に、地下にもぐり、地下鉄で、帰宅することにした。
帰宅と言っても、地元の飲み屋に立ち寄って、焼酎を一杯、ひっかけての帰宅だが。

焼酎のロックをちびりちびりやりながら、考えは、また先程見た映画に向っていた。
インタビューの中で、「仲代劇堂」を作ったのは、62歳の時だったと言っていたことを思い出し、俺もまだやれるかもしれないと思ったり、喘息の持病から、酸素吸入器をつけている姿などをためらいなく晒す仲代さんに、随分経ってから、感激と言うか、感動が、じわじわと襲い、酒の力も手伝って、涙がこぼれて来た。

「継続は力なりだ」
は、『歩く、人』の時に、緒形拳さんに言ってもらったセリフだが、まさに、継続は力なりなのだ。
誰もが、仲代達矢になれるわけではない。
いや、どんなに継続しても、仲代達矢には、なれはしない。
彼になるには、凄まじいばかりの努力が必要だ。
それにもちろん才能も。
そして、運も。知性も。

しかし、「継続は力なり」を信じて、努力し、続けていさえすれば、運や知性は、きっと身につくに違いない。そうすれば、仲代さんにはなれなくとも、あなたのなりたかった人に、近付くことは出来るかも知れない。
それだけは、信じていいのではないか。





2014年12月12日金曜日

12/11

最近、また、一日一本ぐらいの割りあいで、映画を観ている。
東京国際映画祭は、あいにく行くことが出来なかったが、東京フィルメックスには、何回か、行った。
ボクは、映画を作っていながら、監督の名前がなかなか覚えられず、それは、歳のせいとか、ぼんやりとした毎日を送っているせいとかいろいろ原因はあるんだろうが、イランの巨匠とギリシャの巨匠の名を混同してしまったりする。
ツァイ・ミンリャンとジャ・ジャンクーも、顔を浮かべれば判るのだが、映画の題名だけだと、どちらの監督作だったか、立ち止まって、頭を整理しないと、口から出た名前が、逆の人の名前だったりするから、危ない。
その日は、オープニングの日で、塚本晋也監督『野火』を観てから、もう一本、ジャ・ジャンクー監督のドキュメンタリーがあったよなあと思い込んでいて、受け付け近くに立っていた、Iさんに「これからやるジャ・ジャンクーの映画、観たいですが、見られますか?」なんて聞いてしまった。「ああ、ツァイ・ミンリャンの『西遊』ですよね。でしたら、こちらで、IDカードを提示していただければ」と言われて、「はい、そうです」とかと、答えてしまい、チケットを受け取り、まじまじと見て、間違っていたことにようやく気付いた。
ツァイの映画は、ずっと見て来たし、彼の変遷する様を、ある種、驚きをもって見て来たのだが、どうも今回のは、あまり見る気がしなかった。
それが美術館から依頼されて作った映画だからだ。
いわゆるアートである。
アート系とかとは違う趣きなのは、歴然としている。
チケットと交換はしたものの、どうしたものかとしばらく考えたが、見ることにした。
これもいい刺激だろうと思ったからだ。

映画は、予想通り、アートだった。
ワンカットが延々と続く。
そこでは、僧侶の衣裳をまとった男が、超スローモーションで歩くのだが、それ以上のことは起こらないし、それ以下のことも起こらない。
面白いも面白くないもない。
ただ、少なからず、ボクは、動揺し、衝撃を受けた。
ツァイの映画に対する姿勢、向き合い方が、これほどまでに、突き詰められたことにだ。
確かに、この映画は、観て楽しむ映画ではないし、考えさせられる映画でもない。
感じる映画であり、思索にふける映画なのだ。
そして何よりも、マルセイユの街の、あちこちが、ドキュメンタリーのように、定点観測されていくのには、唸った。

そもそも、映画にストーリーは必要なのか?
それは、若いころ、抱いた疑問で、それは映画を作るようになってからも、ずっとボクの中に疑問として、とどまっている。答えは、見つからない。
ただボクは、ストーリーに感動して、映画を作りたいと思ったわけではなく、映画の中のワンカットや、構図、延々と交わされるわき道の会話に、今まで観たこともない、映画体験をし、ボクにも出来るかも知れないと思い、作っている。
しかし、それは、様々な事情で、なかなか思うようには実現できてない。

映画はストーリーだ。
話が面白ければ、それでいいんだと、割り切れれば、ボクの映画も少しは変わっていくだろうし、お客さんも、もっと増えるに違いない。
一般のお客さんが、その映画のワンカットに、戦慄したりはしないだろうし、ただの街角の日常風景を延々と見せられても、何を映してるんだと、腹が立つばかりだろう。
しかし、なかなかストーリーテリングに徹しきれない。
それは、ストーリーが巧く作れないと言うのが、正直なところだ。

ツァイの映画作家としての突き詰め方には、頭が下がる思いだ。
その日は、深くうな垂れながら、帰宅したのを覚えている。

数日後、まだ『西遊』のことが頭から離れないボクは、キム・キドクの『ONE ON ONE』を観た。
キムも映画作りにおいて、独特の変遷をたどっている。
前作の『メビウス』で花開いた感のあるキムだが、この映画も、凄まじい開き直りに、圧倒された。
数年前までのキムには、まだ、映画を信じているような、観客と自分とをつなぎとめてるものがあったのに、この映画では、それが見事に断ち切られている。
礼儀正しいキムが、インタビューやQAで、どんなにへりくだろうと、映画は、徹底して荒々しく、ふてぶてしい。
映画は消耗品で、排泄物だとも言わんばかりだ。

これには、多分、デジタル化が大きく影響しているのではないかとボクは思う。
言い方を変えれば、フイルムからデジタルに変わって、映画は、すでに、映画ではなくなっていると言う事を、彼は、痛感しているんだろう。
かつての情緒は、そこにはない。ただただ、荒々しく、情け容赦なく、荒唐無稽の先にあるリアルに向って突き進む。
ツァイとは真逆の方法論だが、変遷の仕方は、良く似ている。
つまり、突き詰めると言う事だ。
この映画を観て、最初に感じた腹立たしさは、自分に向っている腹立たしさだ。

この二本の映画を観て、これほどボクの心に深く突き刺さった経験はないだろう。
何をやってるんだ、お前は!
そう繰り返し、呟く。
それだけだった。

映画祭の最終日に、目当てだったウォルター・サレス『ジャ・ジャンクー・フェンヤンの子』と言うドキュメンタリーを観た。
まだ完成版ではないとの断りの元、映画は始まった。
ここに描かれる、そして、現在のジャは、44歳だと言う。
キムとは違った形での、ふてぶてしさを内存したこの監督の素顔は、終始とても優しく穏やかだ。
この映画が最後で良かったと、胸を撫で下ろした。
まだ、映画を信じてる作家が、そこにいた。
いつ壊れて行くのか、それはわからないが、形作られたものは、壊すか、壊れて行くかしかないようだ。
壊すまい壊すまいとしても、壊れていく。
繋ぎとめる術はない。
しかし、映画を形成し、壊すことが出来るのも、限られた人たちの特権であり、それは、才能だ。
どうやら映画には、作り手の自分さえもあらぬ方向に引っ張っていく、なにか、得体の知れない、魔力が潜んでいるように思う。




2014年12月5日金曜日

12/04

あっと言う間に、師走に突入した。
本当に、あっと言う間だった。特に、今年は。
今年の1月6日、ボクは、60になった。
還暦である。
気が付いたら、還暦。そんな気持ち。
そして、ボクの定期的な病院通いが始まったのも、その少し前からだった。
人生が変わった。
そのころはとっくに死んでしまっているだろう、次の年のことなんかを、ぼんやりと考えて、感慨にふけっていた。
でも、今、まだボクは生きている。
来年も、ボクは、生き続けるのかもしれない。
死ぬ兆候が、表れたはずなのに、そう簡単に殺してなるものかと、救命策を施して、ボクは、生かされている。

昨夜、家人と話した。
「そう言えば、映画の公開もなく、映画の制作もなかったのは、今年が初めてじゃなかったかな」と。
家人は、ノートを取り出して、ボクがデビュー作を作り、知人の勧めで、作った会社「モンキータウンプロダクション」の創設の頃からの年表のようなものを見て行った。
「ほんとだ」
何ページかのその年表のページを一年一年確認してから、家人が言った。
「今年が、初めて」
「だろ?」

ちょっと、戦慄した。
何をやってるんだと言う気持ちになった。
でも、それとは反対に、やっと一年、休めたと言う気持ちもあり、仕方のないことだとも思った。

一本目で、賞を貰い、二本目がカンヌで掛かって以来、一年に一本は、映画を撮ると自分に誓いを立てた。
でなければ、映画監督として生きてることにはならないと思っていた。
あくまで、映画作りは、仕事であり、事業なのだと。
とにかく企画を生んで、シナリオにし、制作する。
それも、最低、一年に一本は。

そして、それを実行に移していったはずだった。
しかし、公開まで手掛けなくてはならないボクにとって、一年に一本の映画制作は、不可能だと知った。
その年、映画を作れば、公開は早くて、次の年の、中頃になる。
全国での公開が終了するまでには、半年近くは掛かる。
幸か不幸か、大ヒットした映画は、ボクにはない。
だから、何年もその映画に引っ張られることはない。
その代わりに、自転車操業に近い。
映画を製作して、公開し、終わった途端、次の企画を考えて、シナリオにする。
どうしても、企画が浮かばない時は、書き溜めていたシナリオで、スポンサー探しをする。
スポンサーが見つからない時は、自主制作となる。
様々な不安が去来する。
果たして、これでやって行けるのか?
これで、採算がとれるのか?
深夜に、酒をがぶ飲みして、半ば、強引に、制作に踏み切る。
決めたんだから、作るんだ!
と自分に何度も言いきかせる。

キャストが決まり、スタッフが決まると、もう後には、引き返せない。
あとは、前に進めるだけだ。
他には何もない。

こんなことの繰り返しで、18年間を過ごした。
いや、17年間。
しかし、今年は、何もしていない。
今年も、あと残すところ、ひと月もない。
「今からなんて、とても無理だよな」
と、家人を前に、言葉にはしなかったものの、自分に言った。
「いや、出来るかもな」
と、カレンダーを睨む。
そのカレンダーには、仕事以外の、プライベートなことまでも書かれていて、その隙を縫って、映画を作るなんてことは出来そうもない。
でも、出来るような気持ちにもなる。
少し、興奮した。
それでも、やろう! 
というところまではいかなかった。
「うん。良いんだ、今年は。今年は、一年、休むと決めたんだから」
と、自分に念を押した。
ずっとボクなりに突っ走って来たんだ。今年一年は、休もう。頭の中を真っ新にして、来年に備えよう。

今年の初めに考えたことを、この日も、考えた。
そして、家人との話し合いは終わった。

残った、ひとりの時間はいつものように、机に向った。
アイデアの書かれたメモが散乱する机に向い、来年の事を思った。
長い間かかっていた雲が、気が付くと晴れて消えてしまっているような気がした。
この長い雲の間を、一体、どれくらいの間、歩いては立ち止まり、また、引き返しては、立ち止まり、してきたのか?
暗中模索と五里霧中と言う言葉が同時に出た。
ボクにとっては、同じ言葉のように感じた。

ツイッターで、岩田宏さんが亡くなったことを知った。
「同志たち、ごはんですよ」
の分厚い単行本のことを思い出す。
「そうだよ、まずは、ごはんですよ」
明日も、早く起きるだろう。
明日、ご飯を食べてから、来年の事を、ゆっくり考えることにしよう。






2014年6月28日土曜日

06/28

昨日は、人に会った。
こちらに来て何日か後に、Iさんと会って以来のこと。
最初は、蕎麦屋だった。
引っ越し祝いと言うことらしい。Tさんの取り計らいだった。
メンバーは、ボクを含めて四人。
美味しい蕎麦を食べて、ビール。
それから、Kくんたちと、別の店に行き、ギネスのハーフ。
少し飲みすぎたかなとは思ったが、話が盛り上がったので、まあ良しとした。
ボクは特別、アルコールは禁じられていないので、家でも、ほぼ毎日飲んでるが、たいした量じゃない。
以前と比べたら、呑んでないに等しいぐらいだ。
呑めないわけじゃないけど、水分が気になるのと、酔うことを忘れてしまったようなので、少量だけ。
呑んでの失敗も、沢山してきたので、ほどほどの方がいいのだ。
こんなことは、30台ぐらいで、身に染みて、正すのが当たり前なのだが、ボクの場合は、還暦を過ぎて、やっとだ。
バカは死ななきゃ治らないと言うが、いつまた深酒になって、似たような失敗を繰り返すかわからない。
バカは、死んでも治らないのかも。

Mさんの店が去年閉店した。
もともとそう多くは行ってないのだが、無くなってしまうと、淋しい。
ほぼ同時に、Mさんのブログも、お休みに入った。
たまに見ていたので、それも淋しい。
Mさんは、今年に入って、どこかで、新しい店を始めたそうで、今年の初めぐらいに、案内が来た。
凄く小さな店らしく、会員制のようなもので、事前予約が必要らしい。
一度、行ってみたいと思うのだが、未だに行けてない。

Mさんとは、ライター時代に知り合った。
知り合ったと言っても、制作会社で顔を合わせただけで、その後は、連絡を取り合ったりもしていなかったので、知り合いと言うほどのことでもなかったのだろう。
Mさんの店が、乃木坂に移ってから、案内が届いたこともあり、何度か通うようになった。
昔の歌の仲間を集めて、ライブを行ったこともある。

店が乃木坂だったので、テレビ局の人たちと良く顔を合わせた。
ボクは、テレビから、映画の世界に行ったので、昔の知り合いと会うと、何だか、後ろめたい気持ちになる。
それほど、たいした仕事はしてないし、ボクを必要としてくれた人もいなかったので、自分一人で、「テレビを捨てた」と思っているだけなのだが、後ろめたいことに変わりはない。
久し振りにあった人に、嫌味を言われて、その時は、笑って答えたが、良い気持ちはしない。
以来、その店にも足が遠のくようになっていった。

Mさんの店が閉店し、何か月かした後、また店を開いたようで、大阪のボクの住居に案内が来た。
今度は、予約制で、客席は、5つとか6つしかないと言う。
知り合い以外はお断りとも書かれていた。
それでやっていけるかどうかはともかく、随分と思い切ったことをしたなと思った。
Mさんはボクより、何歳か年上だったから、そうは、思い切ったことも出来なかったに違いない。それであっても、知り合い以外の客を拒むなんて、ちょっと驚きだ。
会員制のバーみたいなもんだろうが、初めからあてることを考えないで、店を始めると言うのは、昨今の流行りのようにもなっているし、ひょっとして、予約が絶えないのかもしれない。

映画作りも同様なところがある。
大手メジャー会社が、マンガの原作などのベストセラーを映画化して、何十億もの金を稼ぐ。その一方で、若い人たちが、持っているわずかな金で、映画を作り、公開する。
彼らは、興行で、稼ごうなんてこれっぽっちも考えていないのかも知れない。
沢山の人に観て欲しいとは言いながら、大体結果は、宣伝費が回収できればいい方で、それ以上にはいかないようだ。
とは言え、好きな映画を好きなように作れるようにはなった。
海外の映画祭にも出品しているようで、目的は果たせたのかもしれない。
そうして、何年かして、また、映画を作る。
生業として考えていないから出来ることなのだが、映画作りを生業として考え、いままでどうにかやってきたボクには、何か、物足りないと言うか、腑に落ちないところもある。一方で、羨ましさも感じる。
いや、羨ましさの方が勝っている。

映画の評論家がどんなに褒めても、受け付けない映画と言うものがある。
ボクの映画も、そのクチだが、そもそも、評論家と名乗る人たちの映画を見る目自体が、妖しいので、あまり気にはしていない。
いつか、評価されるだろうぐらいにしか思わないことにしている。
そういう点から言うと、ボクも、今の若い人たちと同じで、食べて行くと言う事さえ考えなければ、自分の好きな映画を好きなように作ることが出来るし、ある面で、そうしてきたのかもしれない。

来年の計画を練っていて、ひとつも空欄が埋まらないのに、少し、焦った。
焦ってはみたが、どうにもならないので、しばらくは、何か思いつくまで、待つことにした。
待って、どうにかなるものでもないのだが、いつものように、衝動に突き動かされるのを期待するしかない。

Mさんの店は、飲み放題で、5000円ぽっきりだと言う。
往復タクシーを使ったとして、1万円。
では、一万円札を握りしめて、衝動のきっかけでも作りに、一度、訪ねてみようか?
ああ、その前に、予約をしなくちゃならないんだった。

2014年6月27日金曜日

06/27

これと言って、何の変哲もない毎日を送っています。
変哲もないと言うのは、変哲もないと言うことで、ありふれていてつまらないと言うことなんだけど、では、毎日がありふれていてつまらないのかと言うと、なんだかんだで、バタバタしていて、つまらないことはつまらないのだけれども、知らないうちに一日が終わっていて、退屈と言うことでもないようです。
こちらに来てから、読書にも映画にもほとんど興味がわかず、見てもいないし読んでもいないのだけれども、テレビで何本かは観たりしているし、書棚の本を取り出して、拾い読みなんかはしている。
逃れられないと言うのか、まったく何にもなしの生活と言うのは、ボクの場合は、無理なようです。
昨日は、夕方から「映画でも観ようか」と言うことになり、あれこれ探したんだけど、これと言うのが見つからないで、ずるずると時間ばかり経ってしまい、側で奥さんが、『ノーバディーズフール』と言うもんだから、しばし考えた挙句、ちょっと今更の感じがしたけれども、『ノーバディーズフール』を見ることにした。

観始めてから、ほんの何分かで、奥さんはいなくなってしまい、結局ボクひとりで観ることになった。
途中でやめることもできないことはなかったけれども、長い間、見てなかった映画なので、話の筋も忘れていて、それもあって観ていた。
この映画が大好きだった時期は、随分と長い。
30代から40代の10年ぐらいの間、頭の中に、この映画がなかったことがないぐらい。
あんな映画が作りたいと思ったが、あんな映画、作れるわけがないと思った。ボクには、『タイタニック』や『ターミネーター』を作るぐらいか、それ以上に困難なことだし、真似てみても、及ばないのは、最初からわかり切っていたようだ。
それでも、映画を作るようになって、ふと思い立って、似せたシーンを作ってみたりもした。うまくいかないのはわかっていたんだけど、やらないわけにはいかなかった。ボクの原点だからだろう。

ベントンには、『クレーマークレーマー』と言うヒット作があるが、あれも大好きだが、それよりも、『プレイスインザハート』が好きだし、『ノーバディーズフール』が好きだ。去年だったか、ロッテルダム映画祭に行ったとき、ハワードショアが来ると言うのを知って、『ノーバディーズ~』のサントラCDをもって、サインをしてもらったけれども、あの映画の音楽は、本当に素晴らしい。その素晴らしさは、『マグノリアの花たち』の音楽に匹敵する。共に、どこかトリュフォーを思わせるからだろうが…。

トリュフォーと言えば、ベントンがトリュフォーの影響下にあるのは、わかりきったことだが、今回観ていて、セーターをたくし上げて、おっぱいを見せるメラニーグリフィスなんかは、トリュフォー映画そのもので、ベントンが、照れながら演出をしているのがわかって微笑ましい。
映画はあたかも年老いたドワネルがそこにいるかのように、静かに、端正さを保ち、かつ個人的に展開していき、幸せな寝顔で終わる。
その寝顔を観た時、『春との旅』のラストの仲代さんの寝顔を思い出したのは、ボクだけのはずだ。こんなところにも、この映画の影響があったのかと、ちょっと慌てるほどだった。

仲代さんで、もう一本と思っていたところだったので、この偶然には、今でも、何かの巡り会わせのように感じている。
「そうか、忠男は、死んだわけではないんだな。あそこで、眠ってしまっただけなんだな!」
と思った次の瞬間、『ノーバディーズ~』の主人公は、玄関前のソファーで、葉巻をくわえたまま、眠ってしまったのではなくて、そのまま、死んでしまったのかも知れないとも思い、いずれにしても、幸せな死であり、人生だったのだなと感じないではいられない。

少し少しだけれども、前に向って歩いているようにも感じるし、停滞したままとも感じる。
『日本の悲劇』があまりに思いつめた映画だったので、今度は…と言う気持ちもあるが、今度なんて、本当にあるのかと他人事のようにも思う。

遠く、北海道の雪景色を思っていたら、苫小牧の新聞から、勇払と北上荘のことについての、コメントを求められた。
そちらの方の言葉を考えていたら、知らないうちに、時間がどんどん経っていた。忘れかけていた人たちの顔が次々に浮かんでは消えて行った。

『フリック』や『愛の予感』を作った頃の事を思いだしながら、この文章を書いているのだが、勇払だけに限らず、鳴子温泉にも雪はあるし、ボクのノーバティーズフール(一徹者・頑固者の意らしい)は、まずは、馴染みの風景を思い描きながら、馴染みの登場人物を配して、机の上で、展開されていくのだろう。

2014年5月28日水曜日

5/26

ときどき、「ガープの世界」の事を思いだす。
この映画と比較したら、大ヒットした「フォレストガンプ」なんて、二番煎じにしか思えない。
「人生は素晴らしい!」
そう叫ぶ、ガープは、どんなに辛い時でも、笑顔を絶やさない。
ロビンウィリアムズの名演も光るが、慈愛に生きた母親役のグレンクロースも格別だ。
名前は判らないが、おかまののっぽで太った男もいい。
何もかもが、いい。
ジョージロイヒル監督には、他にも名作が何本かあるが、彼の感受性は、この映画でも、いかんなく発揮している。
思えば、トリュフォーから始まった、映画への憧憬は、監督の感受性への共感から始まった。
「プレイスインザハート」や「ノーバディーズフール」などのロバートベントン監督作や、ジョージロイヒル監督の諸作品を観て、それは、確たるものになっていった。

映画を作るようになって、いかに映画で感受性を表現することが難しいかを思い知るようになった。
シャイでは映画は作れない。
確かに、そうなんだろう。
ならば、ジャンルノワールはどうなんだろう?
俳優に質問攻めを食らい、泣き出したと言う。
あれは一体、何なのだろう?
もう30年も前に読んだ、そんなエピソードが、未だに疑問のまま、ボクの中にある。

映画が、沢山の人を介して、作られると言うのは事実だ。
その沢山の人を懐柔していかなければならない監督が、内にこもっていて、感受性うんぬんを言っていたら、映画は、進まない。
しかし、だからと言って、創作の一番の原点である自らの感受性を踏みにじってまで、映画を作れるのだろうか?
いや、作っていいものだろうか?
毎回悩むところだが、気が付くと、感受性のかの字も振り返らずに、制作に突き進んでいる。

ちょっとやそっとの事では、自分の感受性を見失いやしない。
そう自分に言いきかせてみることはみるのだが、後のまつりだ。
出来上がったものに、その片鱗さえないことに気付く。
そして、いつしか、感受性さえも、それほど大事なことではないんだと思うようになる。
そんなナイーブでどうするんだ。
鈍感でいいんだ。
映画に感受性なんて、必要ないんだ。
刺激的でありさえすれば、いい。
極端から極端に突っ走る。

初心を忘れているのに、自分でも気づかない。
それがボクだ。
そんなボクに、嫌気がさしてきていた。
そんな時に、思い出すのが、「ガープの世界」だった。

ジョージロイヒルは、2002年に亡くなった。
80歳。
「リトルドラマーガール」(84)を発表後、パーキンソン病を発病し、以後、映画制作から離れたようだ。
84年から、亡くなるまでの18年間。
映画制作から離れたジョージロイヒル監督が何を思い生きたのか?
溢れる感受性とともに、人生を全うしたに違いない。
そう思いたい。

今日は、引っ越しの段ボールづめが待っている。
でも、それがひと段落ついたら、ワインを一杯やりながら、久し振りに、「ガープの世界」を見ることにしよう!

2014年5月25日日曜日

05/24

パソコンが、唸り声をあげている。
このパソコン、買った時からそうなのだが、いい加減、嫌になる。
窓から放り出したくなるのを、堪えて、何本か脚本を書いてきたが、途中で、ノートの方にするのが常。
思えば、それほどこのパソコンで、脚本を書ききったことはなかったようだ。
ソニーが、売却した何台目かのVAIOなのだけれど、そろそろ、本当に、MACに乗り換えようかと思う。
思うには思うのだけれど、VAIOで通してきた意地もないことはない。

全てが、そうだ。
何かに乗り換えようとしても、なかなか踏ん切りがつかない。
気がつくと、同じものを、何年、何十年と使っている。
映画の好みも同じで、いい加減、しんねりむっつりしたのはやめようと思うのだが、書きだすと、気が付くと、自虐的な脚本しか上がらない。
それならいっそ誰かに書いてもらおうかとも思うが、そして、実際、書いてもらったこともあるのだが、言葉のひとつひとつが気に入らない。
「シナリオは、好きになるまで読み込むこと!」
は、あるプロデューサーの言葉だが、そんなことは、ボクの場合は出来そうもない。自作の脚本でも、何度かしか読まない。
読めば、直したくなるからだ。
次作であっても、その調子なのだから、他人が書いたものなんか、全部、書き直したくなってしまう。
難しい奴なのだ、ボクって奴は。

久し振りに、ブログを更新しようと思い、また、思いつくままに書きだしたのだが、何を書いているのか、自分でも判らない。
そう。
今日は、『日本の悲劇』のツイッターアカウントを廃止する旨を、ツイートしたんだった。
丸一年、続けた。
配給会社がやってくれなかったので、ボクが始めたのだが、これがなかなかやっかいな代物で、何度もやめてしまうと思ったことか。
でも、やめるわけにはいかなかった。
それに、あたたかいツイートをしてくれる人たちもいた。
それで随分と、励まされたこともあった。
廃止するに至り、今日一日、色んな考えが、巡った。
あの映画を作って、良かったことは、今のボクが、ここにまだ在ると言うことだ。
生きてるのだ! ボクは!
そして、また、何かやろうとしている。
いや、そんな気になっていると言う事が、ほとんど奇跡のように思えるのだ。

「死ぬ思い」なんて、簡単に書いてしまうが、まさに、死ぬ思いで、書いた脚本だった。
映画にするには、暗すぎた。
当り前だ。遺書のつもりでかいたのだから。
なのに、あれよあれよと言う間に、映画になってしまった。
遺書ではなくなった『日本の悲劇』は、公開され、思いのほか沢山の人に観てもらった。
でも、そのことで、ボクの、『日本の悲劇』は、ひとり占めできなくなってしまった。
遺書が遺書でなくなったしまった。

今後、ボクは、遺書は書かない。
遺す言葉は、要らない。
そんな結論に至った。
これは、ボクにとっては大きな成果だ。
遺書のことを考えなくて良くなったのだ。
いつでも、ボクは、野垂れ死にすることが出来る。
そうなると、ひきこもって、いじけてるボクと言う人間が、少し、愛しくなってきた。
そうだ! 生き抜こう!
そう思うようになったのだ。
それは、『日本の悲劇』で死んでいった父親とは真逆の選択肢だ。
生き抜く?
ちょっと、大袈裟かなあとも思う。
ま、なんかしましょう程度の事なんだけど。

だから、ま、なんかしましょうの始まりで、久し振りに、このブログを書いてみた訳です。

みなさんも、ま、なんかしましょう!



2014年1月1日水曜日

2014/1/1

あけましておめでとうございます。




昨年は、全州映画祭製作の『逢う時は他人』の制作から始まり『日本の悲劇』の公開と、抱えていた仕事を何とか、こなした一年でした。まだまだ『日本の悲劇』の上映は続きます。また今年も、映画を作り続けます。
どうぞよろしくお願いします。
みなさんにとって、2014年が良い年であります様に、




2014/1/1       

                                                                                   小林 政広拝、




2017年の事、そして、18年に向けて、

一昨年に撮影、完成した「海辺のリア」の公開が、6月となり、(これは、完成する前から決まっていたのですが)それまでは、新作のことも考えずに、ただ漫然と公開を待つ日々を送っていました。 映画が完成してしまい、初号試写が終わってしまうと、奇妙な空気が漂い始めます。 何かを始めように...