2012年1月4日水曜日

2011年の事と2012年の事、

去年、ボクは二本の映画の撮影をした。
一本は既に完成した、『ギリギリの女たち』で、東京国際映画祭がワールドプレミアとなった。
もう一本は、『日本の悲劇』と題するもので、こちらの方は、年末にボクの作業は終了し、一月の初号を待つのみだ。
どちらも、昨年の311の大震災が契機となって、制作されたもので、もし、311の大震災がなかったら、作られることはなかっただろう。
いや、311の大震災がなかったら、ボクは、『春との旅』を最後に、映画を作ることなどなかったに違いないのだ。
考えることあって、大阪に居を構えたのは、昨年一月だった。
一昨年は、『春との旅』の公開があって、一年中バタバタしていた。
日本だけではなく、世界中を飛び回っていた。
それは、昨年の5月ぐらいまで続いた。
馴染みの映画祭に参加していたのだ。
いつもなら一人で行く映画祭に、奥さんもついてきてもらった。
ひとりではとてもじゃないが、長い飛行機での旅は、もちそうになかったからだ。
そのぐらい精神的に参っていた。
体力もどんどん衰えていき、駅前の喫茶店に行くのでさえ難儀で、翌日に、そして、また、その翌日にと何かと理由をつけて持ち越していた。
そんな体たらくだ。
映画なんか作れるわけがなかった。
それでも、何かしていないといられない。
たまたまSさんからライブをやらないかとのお誘いがあり、自信はなかったがそれに乗った。
東京で何度か、Sさんとライブをした。
何度目かのライブ。
そして、これが最後と思っていたライブの日が、311の大震災の日だった。
ボクは飯田橋の喫茶店で、震災を経験し、直ぐにSさんと連絡をとったが電話は繋がらず、ライブハウスのある吉祥寺まで行くすべもなかった。
ライブは中止になった。
ボクと奥さんが泊まっていた九段会館は、震災の被害に遭い、その日から閉鎖されてしまい、ボクたちは事務所で雑魚寝して、翌々日に、大阪に戻った。
その後のことは、ここで書くまでもない。
数か月間は、テレビを食い入るように見つめ、東北の太平洋沿岸の震災の爪痕を毎日のように見、そして、原発事故による放射能汚染のニュースに腹を立てていた。
映画を作ることで、何かが変わるとはもちろん思っていなかったが、映画を作ってきた人間として、今、この時期に映画を作らないと言うのにも、理由はなかった。
動かない体をなんとか駆使して、しかも被災地の気仙沼市唐桑で、まず、小さな映画を作ってみようと思った。
SNSでKさんと知り合ったのが映画作りを現実のものとした。
『日本の悲劇』の制作は、9月から始まった。
脚本は既に一年前に書かれたもので、用意されていたが、とても映画になるような題材ではなかった。
震災以降、その脚本に加筆した。
何とか形が見え始めたのは、やはり震災を踏まえたその後のことで、311がなければ、永久に陽の目は見なかったに違いない。
ボクにとって、映画を作れる状況にあると言うのは。そして、映画を作ることが出来たということは、幸せなことだが、そのきっかけが、不幸な大震災にあることを思うと、喜んでばかりもいられない。
震災を扱っているからには、興行会社が二の足を踏むのは判り切ったことだし、果たして公開にこぎつけられるかどうか、微妙なところだ。
それでも、いつかは、皆さんに観ていただける時が来ると信じている。
映画館が駄目なら、DVDか配信でも良いのではないかとボクは思っている。

二本の映画を作って、少しは体力も回復してきた。
しかし、その次の映画を作ろうという気にはいまのところなれない。
いや、作ろうと言う気持ちはあるのだが、何か、今までしてきたこととは全く違う方法論で、映画を作ってみたくて仕方がない。
それは、個人映画とよぶようなもので、公開を前提としたものではないのか?
それとも、純然たる娯楽映画なのか…?
考える時間は十分にあるのだから、せいぜい、考えて結論を出そう。
春になったら、唐桑での生活を再開しようかとも考えている。
一年後の被災地に身を置いてみたいと思う。
やはり、ボクは、あそこからしか始められないように思うのだ。




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