2012年1月21日土曜日

ロッテルダム映画祭のHPよりの転載

ギリギリの女たち The disaster on 11 March 2011 made a huge impression in Japan. Few filmmakers were capable of coming up with an original response, but Kobayashi found a personal way. He invited three actresses to his family home in the disaster-stricken area. They act like nothing happened. Women on the Edge has four leads: three actresses and a house. A house in a beautiful rural location, the countryside tarnished by the disaster which struck Japan in March 2011. However, in the house’s immediate surroundings everything seems normal. The three actresses play the sisters Takako (Watanabe Makiko), Nobuko (Nakamura Yuko) and Satomi (Fujima Miho). The three have a frosty relationship and the reunion is unplanned. They haven’t seen each other for ten years. They all accidentally return to the family home for different reasons, which leads to tensions, and the desolate landscape after the disaster just exacerbates the mood. Kobayashi (The Rebirth) has previously shot films in this area that he loves, which led him to purchase the house that the film is set in and around. Initially he doubted whether shooting in the disaster area was appropriate, but those who live there encouraged him. Programmer Note by Gertjan Zuilhof: In Tokyo, not long after having watched this film, I asked Kobayashi san whether he had, perhaps, been inspired by examples from theatre such as Chekhov’s Three Sisters. He gave me a dubious look. No, that wasn’t the case. Perhaps he looked so concerned because he was afraid he’d be asked that question more often in connection with this film. I could share his concern because the film’s origins lie far from theatre - in real life. The original question being: How can you still make a film after the Biggest Disaster? Kobayashi even doubted the answer to that question while he was filming and he may still have had his doubts during the premiere in Tokyo. He would have steeled himself for questions about the Disaster, not ones about a classic Russian play. The film adheres to the classical Aristotelian theatrical law of unity of place and action. The house is the sole setting and the three sisters meeting again - primarily a confrontation between three actresses - is the only action. That is the exceptional thing about this film: the meeting of classic form and improvised contemporary content.

2012年1月4日水曜日

2012/1/4

脚本でようやく食えるようになつたころ、NYに行って、公開されたばかりの「スピード」を観た。まるでライブハウスのように観客が大いに沸いていた。毎日同じ映画館に通い何度も「スピード」を観た。巧みなシナリオに舌を巻きもながらも、どうして観客がこうも沸くのか、理解できなかったからだ。
そのうちに、映画の作り手と観客が駆け引きしていることに気付いた。次のシーンでこうなるだろうと観客は予測するが、そうはならずにはぐらかされ、次の瞬間不意打ちを食らわす。あたかも、スクリーンの裏に、監督が潜んでいて何通りかのシナリオを客の反応ごとに瞬時に入れ替えているのではないか?と思えるほどだ。しかしもちろんそんなことはない。これはすべて、あらかじめ作られたものなのだ。しかし判らなかった。どうしてこんな脚本が書けるものなのか? この映画の監督と脚本家は相当の強者だと思った。以来、何度も「スピード」を見直し、僕なりに研究した。いつものシナリオを書く過程の
逆をやってみた。つまり、映画の記憶を頼りにシナリオを起こし、今度はそれを小バコにし、大バコにしていく。最後は、短いストーリーにする。そうやって映画を自分なりに解体してみたのだ。なるほどと思うところが何か所か見つかった。アクション映画のシークエンスは、少なければ少ないほど良いと
言うのは判っていたが、(「ターミネーター2」や「エイリアン2」)ワンシークエンスでラストまでと言うのはそう滅多にあるもんじゃない。一切のダレ場がないのだ。これには驚いた。と言うよりも自分の不勉強さを恥じた。こんな映画を作る奴がいる以上とても商売にはならないと落ち込み廃業を考えた、
帰国して、何か月か後に、「スピード」が日本で公開された。もちろん、この映画は日本でも話題になった。ボクは、もう一度、劇場に行って、この映画を観た。NYでは沸きに沸いたこの映画だったが、日本の劇場では、静まり返ったままで、丸で別の映画を観ているような錯覚に陥った。こんなことはいつも言われることで珍しくもないのだが、日本の観客とアメリカの観客は、映画の見方がまるで違う。どちらがいいとは一概には言えない。それでも、ボクが廃業もせず、それから何年もの間、脚本で食べていけたのは、(テレビの世界だったが)、見せる相手が日本人だったからに違いない。それでも何とか、ない才能を駆使して、ワンシークエンスでシナリオを書いてみようと思った。これは、思いのほかエネルギーの要る作業で、通常のシノプシスから大バコ、小バコといった過程を踏んでの言わば日本式のシナリオ作法ではとうてい成し得ないことに気付いた。アイデアが浮かんだら、
とにかく、書く。そのシーンの終わりが来る随分と前に、次のその次の、更にその次のシーンが浮かんでなければならず、メモをしながら書き進めた。登場人物の一挙一動にハラハラしながら(登場人物がそのシーンの次の台詞で何を言い出すかわからないからだが)、
「ああ、またこいつこんなこと言いやがって!」と泣く泣く、徹夜してメモした以降の構想を破り捨ての繰り返し。そうやって何本かのシナリオを書き、ピンク映画で、(ピンクの場合は絡みのシーンを何か所か入れなければならないので、ワンシークエンスというわけにはいかないが)試してみた。
サトウトシキ監督と組んだ何本かの映画は、そんな試行品だったが、(良いか悪いかは別にして、)ボク流のシナリオ作法の始まりだった。どんな映画も、全てのシーンにサスペンスが潜んでなければならないと思う。それをボクは、「スピード」から。NYの「スピード」を観た観客から学んだ。
年頭にあたり、自戒を込めて、書いてみました。


ツイッターより、

2011年の事と2012年の事、

去年、ボクは二本の映画の撮影をした。
一本は既に完成した、『ギリギリの女たち』で、東京国際映画祭がワールドプレミアとなった。
もう一本は、『日本の悲劇』と題するもので、こちらの方は、年末にボクの作業は終了し、一月の初号を待つのみだ。
どちらも、昨年の311の大震災が契機となって、制作されたもので、もし、311の大震災がなかったら、作られることはなかっただろう。
いや、311の大震災がなかったら、ボクは、『春との旅』を最後に、映画を作ることなどなかったに違いないのだ。
考えることあって、大阪に居を構えたのは、昨年一月だった。
一昨年は、『春との旅』の公開があって、一年中バタバタしていた。
日本だけではなく、世界中を飛び回っていた。
それは、昨年の5月ぐらいまで続いた。
馴染みの映画祭に参加していたのだ。
いつもなら一人で行く映画祭に、奥さんもついてきてもらった。
ひとりではとてもじゃないが、長い飛行機での旅は、もちそうになかったからだ。
そのぐらい精神的に参っていた。
体力もどんどん衰えていき、駅前の喫茶店に行くのでさえ難儀で、翌日に、そして、また、その翌日にと何かと理由をつけて持ち越していた。
そんな体たらくだ。
映画なんか作れるわけがなかった。
それでも、何かしていないといられない。
たまたまSさんからライブをやらないかとのお誘いがあり、自信はなかったがそれに乗った。
東京で何度か、Sさんとライブをした。
何度目かのライブ。
そして、これが最後と思っていたライブの日が、311の大震災の日だった。
ボクは飯田橋の喫茶店で、震災を経験し、直ぐにSさんと連絡をとったが電話は繋がらず、ライブハウスのある吉祥寺まで行くすべもなかった。
ライブは中止になった。
ボクと奥さんが泊まっていた九段会館は、震災の被害に遭い、その日から閉鎖されてしまい、ボクたちは事務所で雑魚寝して、翌々日に、大阪に戻った。
その後のことは、ここで書くまでもない。
数か月間は、テレビを食い入るように見つめ、東北の太平洋沿岸の震災の爪痕を毎日のように見、そして、原発事故による放射能汚染のニュースに腹を立てていた。
映画を作ることで、何かが変わるとはもちろん思っていなかったが、映画を作ってきた人間として、今、この時期に映画を作らないと言うのにも、理由はなかった。
動かない体をなんとか駆使して、しかも被災地の気仙沼市唐桑で、まず、小さな映画を作ってみようと思った。
SNSでKさんと知り合ったのが映画作りを現実のものとした。
『日本の悲劇』の制作は、9月から始まった。
脚本は既に一年前に書かれたもので、用意されていたが、とても映画になるような題材ではなかった。
震災以降、その脚本に加筆した。
何とか形が見え始めたのは、やはり震災を踏まえたその後のことで、311がなければ、永久に陽の目は見なかったに違いない。
ボクにとって、映画を作れる状況にあると言うのは。そして、映画を作ることが出来たということは、幸せなことだが、そのきっかけが、不幸な大震災にあることを思うと、喜んでばかりもいられない。
震災を扱っているからには、興行会社が二の足を踏むのは判り切ったことだし、果たして公開にこぎつけられるかどうか、微妙なところだ。
それでも、いつかは、皆さんに観ていただける時が来ると信じている。
映画館が駄目なら、DVDか配信でも良いのではないかとボクは思っている。

二本の映画を作って、少しは体力も回復してきた。
しかし、その次の映画を作ろうという気にはいまのところなれない。
いや、作ろうと言う気持ちはあるのだが、何か、今までしてきたこととは全く違う方法論で、映画を作ってみたくて仕方がない。
それは、個人映画とよぶようなもので、公開を前提としたものではないのか?
それとも、純然たる娯楽映画なのか…?
考える時間は十分にあるのだから、せいぜい、考えて結論を出そう。
春になったら、唐桑での生活を再開しようかとも考えている。
一年後の被災地に身を置いてみたいと思う。
やはり、ボクは、あそこからしか始められないように思うのだ。




2017年の事、そして、18年に向けて、

一昨年に撮影、完成した「海辺のリア」の公開が、6月となり、(これは、完成する前から決まっていたのですが)それまでは、新作のことも考えずに、ただ漫然と公開を待つ日々を送っていました。 映画が完成してしまい、初号試写が終わってしまうと、奇妙な空気が漂い始めます。 何かを始めように...