2011年3月31日木曜日

2011/03/30

明日が、今日より、良い日で、ありますよう。







被災地の皆さん、本当につらい思いをしていますね。

ボクも、皆さんに励まされながら、生きています。


http://www.youtube.com/watch?v=iellXDUHxdc&feature=fvwrel

2011/03/27

毎日、憂鬱だ。

だから、ブログも書かないことにしていたのだけれど、このままでいくともう、永久にブログを書くこともなくなってしまうんじゃないと思い、憂鬱な気分のまま、書くことにした。

憂鬱の原因は、色々あるけれども、一番大きいのは、原発事故のことだ。

次に、僕自身の体のこと。

でも、震災の被災者の方々のことでは、それほど憂鬱にはならない。

むしろ、励まされる。

あんな酷い目にあっているのに、それでも前向きに生きていこうとしている人たちがいることに、心から感動する。

震災があって何日かは、もちろん塞ぎこんでいたけれども、それからというものは励まされている。

僅かだが、義援金も、外に出るごとに、何度も、募金箱に入れている。

励まされている御礼の意味もある。

今まで、こんなことしたこともなかったけれども、今回は、違う。

なぜ違うのか?

馴染みの東北や関東で起こった地震だからなのか?

それとも、何なんだろう?

良く、判らないが、今回だけは、義援金だけじゃなくて、自分に今、出来ることは何なのか? 今でなくても、近い将来、いや、この先、ずっと、社会の一助になることは何なのか? そればかり考えている。

そのことを考えていると、少し、前向きになる。

気持ちが、前に進んでるのが良く判る。

でも、また、原発のニュースで、憂鬱に引き戻される。

たまらなくなって、呑む。

ツイッターやHPでは、毎日沢山のテレビのニュースとは違った、事実が流れ、一体、どちらが本当なのか、迷う。

ツイッターなどの呟きが本当なら、とても楽観視は出来ないし、風評被害と言う言葉も、当たらない。風評被害とは、事実ではない噂が、人々に被害を及ぼすから言うのであって、本当のことならば、それは、風評とは言わない。

しかし、テレビも、ツイツターも、同じように、風評被害にあわないようにとも言っている。

「東京の水は、乳児以外は、飲んでも健康に影響はない」

との会見の直後に、ツイッターでは、「ミクロン単位の放射性物質のチリひとつでも、体内に入れば、人体に影響がある」ようなことを言ってる。

そんなのは序の口で、政府らの公表はする数字は、捏造だとも言う。

ボクなんかは、どちらを信じたらいいのか?

いや、信じたいのは政府らの言うことだが、鵜呑みにするには、楽観的過ぎる。でも、片方の、反原発を唱える人たちの意見を聞いていると、もう、何をしても無駄のように思えてくる。

これでは、たまらない。

憂鬱になるのも無理はない。

だからどうしたらいいのか?

この憂鬱から抜け出すためには、何をしたらいいのか?

いつしか考えは、そちらの方に行ってしまい、被災者の皆さんのことを、何も考えなくなってしまっている。

苦しいから、逃げ出そうとすると、「卑怯者」呼ばわりされるらしい。

別に、卑怯者でも何でもいいのだけれども、憂鬱がそれで晴れるかというと、怪しい。

だから、「もう、逃げられないのだ」と心に決めて、自分と向かい合うほかはない。

憂鬱からの脱却など考えずに、

「憂鬱は、永遠に晴れることはないのだ」

と、思うことか。

そうして、「ボクの憂鬱君」が、白けて去るのを願うのみなのかな。

2011年3月25日金曜日

2011/03/25

東北関東大震災から二週間。

何一つ、手つかずのままの、実に長い二週間だった。

そして、今朝、東京から電話があった。

奥さんが出たのだけれども、畠中基博さんが亡くなったとの知らせ。

病死とのこと。

言葉もない。

基博さんには随分とお世話になった。

香川くんをキャスティングした時からの付き合いで、何本になるのか…、随分と沢山の映画のキャスティングに協力してくれた。

毎回、仕方なくだったけどね。それでも、一緒に映画を作りましょうと声を掛けてくれて、何度か打ち合わせをしたり、台本を書いたりもした。

紆余曲折あってそれらの企画は実現しなかったけど、そこのから派生して出来た映画が一本だけある。

『気仙沼伝説』だ。

この映画は、未だ公開されていないが、基博さんが企画したもので、『ええじゃないか日本』シリーズの内の一本として考えていたようだ。

東北の全ての県で一本づつ撮影しようという考えだった。

ボクが当初言われていたのは、福島編だったように思う。

宮城編の『気仙沼伝説』が終わったら、クランクインする予定だったのだ。

しかし、一発目の宮城編の台本がうまくいかなかった。

そこで、制作会社の××プロモーションのプロデューサーが入ってきて、別のライターを起用することになり、福島編の前に、宮城編を監督しないかとの話が来たのだ。

新たにプロデューサーが入ってからというもの、話の中味は、極端に変わっていった。知らない間に、ボクと基博さんの考えなどどこかにいってしまい、とんでもないシナリオが上がってきた。

読めば読むほど、わけのわからないシナリオだった。

「一体、これをどう撮ればいいんだ?!」

既に、キャスティングは決まっていて、ロケハンも制作部を中心に始まっていた。予算は、当初、潤沢にあった。そう聞いていた。

でも、いつものようにそれは次第に目減りしていって、クランクインしても、予算が下りなくなってしまった。

ファンド会社からの入金が全くないのだ。

内輪もめが始まった。

結果映画は、数か月後に完成はしたのだが、裁判沙汰となり、未だ公開されていない。

そこには、今は無くなってしまった気仙沼の風景が沢山撮られている。

ボクは、この映画がきっかけで、以後、気仙沼で日本の映画を作ることになったのだ。

だから作品の良しあしは別にして、ボクにとってこの映画はとても貴重なものだ。

基博さんもこの映画には随分と心血を注いだに違いない。自分の持ってる映画館で掛けようとしたこともあった。

でも、もうそれも果たせない。

数か月前、彼は映画館を手放したらしい。

それが経営不振からのものなのか、体の不調から来るものなのかはわからないが、おそらく後者が原因のことだろう。

数か月前にある企画を思い立ち、基博さんに電話したのだが、

「これからは××に話をしてくれませんか」

と、会社の若い人に振られてしまった。

とても、何かを始めるような状態ではなかったんだろう。

「入院してたんですよ」

とも言っていたので、ボクはてっきり糖尿病の数値が高くなったからだとばかり思っていたのだが…。

何とも、残念だ。

いや、本当に、残念でならない。

仕事を一緒には出来ないまでも、あと一度ぐらい、会って話したかった。

思えは基博さんと飲んだのも数えるほどで、一、二度のことだった。いつも事務所で会っていた。

会って、説得しなくちゃならないことがあったからだ。

でも、いつも決まって、その難題はあっと言う間に解決してしまう。

「いや、それは、あとは役者のスケジュールの問題だけですから」

それだけだった。

ボクがほっと胸をなでおろしていると、基博さんの独壇場が始まる。

二時間、三時間はざらだ。

昼過ぎに事務所を訪ねて、夕方までなんてこともしょっちゅうだった。

基博さんは、いつも決まって、夢を語った。

ニューヨークとパリに映画館を作るんだと言っていた。実際、基博さんはニューヨークやパリに行き、古い映画館を手に入れる交渉もしていたらしい。

いやはや。すさまじいエネルギーの人だった。

基博さんが亡くなったのは、三月二十三日らしい。

今日が告別式とのこと。

基博さんが眠る街からは500キロも離れているが、「お疲れさん」の言葉は届くだろうか?

本当に、お世話になりました。ありがとうございました!

2011年3月22日火曜日

2011/03/21

去年から、日記を書いている。

ブログでも書いていたから、毎日、日記ばかりつけているということになる。

ボクの場合、日記を書くのは、調子が良くない証拠でもある。

毎日書くこともあれば、一週間まとめて振り返ることもあるが、そういうときは決まって何日か記憶が確かではない日が必ずある。

どんなに考えても、その日何をしたのか思い出せないのだ。

そしてついに「何をしたか覚えていない」と書く。

それが何日にもなることもある。

3月11日の震災の日以降も日記は書き続けているが、前以上に単調な日記になっていて、ここ数日はつけていないので、今日あたり日記帳を開いて、ある日にちになると、「何をしたか覚えていない」と記すに違いない。

それを書くのが嫌で、日記帳を開くこともせずにいる。

怠惰だ。

どうしようもなく怠惰な自分がいる。

こんなことじゃ駄目だと自分に言い聞かすが、なかなか直らない。

困ったものだ。

×  ×  ×

これを書きながら、ブラッサンスを聴いている。

今日は雨。

それでも、気温は高めのようで、暖房をつけてはいるが、換気のためが大きい。

ツイッターを眺めていたら、まったくもってバカなことをほざくやつがいて、腹が立ってきた。タバコ関連の義援金は受け付けるな! なんてほざいてる団体のツイッターだ。

だったらお前らがその分、金を出せよ!! と思う。

いや、金を出してからそういうことを言え! よな!!

×  ×  ×

AERAの表紙が、風評被害を助長しているとのこと。

ツイッターでの抗議がもの凄いらしく、ついにAERAの編集長は謝罪した。しかもツイッターで!

それを新聞が記事にしているようだ。

いい時代になったもんだと他人事のように思う。

あくまで、他人事だ。

何が本当のことかなんて誰にもわからないに違いない。

そうなのだ。

真実は沢山ある。

でも、事実は一つ。

福島で、原発事故が起きた。

放射性物質がまき散らされた。

そのことだけだ。

今の雨に、放射能が含まれているのかも知れない。

先ほど出かけた奥さんと子供は、傘をさしているんだろうか?

着いた先で、手を洗ったのだろうか?

気になるのは、その程度のことだ。

それ以上気にしていたら、生きてはいけない。

今、まさに飲もうとしている牛乳、そしてチーズ、ヨーグルト、ほうれんそうなどにも、放射性物質が含まれているかも知れない。

それが体内に蓄積されて、いつか発ガンする。

そんなことを考えて毎日を生きては行けない。

風評被害に惑わされてにっちもさっちもいかなくなって、神経症で死んでしまうのだけは御免だな。

2011/03/18

広瀬隆さんの顔をひさしぶりに見た。

PCの画面でだ。

この人の顔を見るのは、本当に久しぶりだ。

前に見たのは、もう何年前だろうか?

30年近くたっているんじゃないだろうか? その頃、広瀬さんは、テレビにしょっちゅう出ていた。その頃から原発のことを話していた。

ボクは、真剣に聞き入れば聞き入るほど、どうしようもなさが先に立ってしまい、ついには、この人に拒絶反応を起こしてしまった。

顔はおろか名前を見ただけで、気分が悪い日が続いた。

そのうち、ボクは、広瀬さんの名前を忘れた。

その頃出された本が『東京に原発を!』だった。

もちろん読んではいない。

テレビで、「これを読め!!」とばかりに突き出された本を見て、とても買う気にはならなくなってしまった。

挑発的な本のタイトルも、好きではなかった。

とにかく広瀬さんがテレビでこの本の宣伝をしているのを見ていて、鼻白む思いだったのだ。

「原発の危険性を散々説いたあげくに、何だよ、結局は本の宣伝かよ」

そう思ったものだ。







30数年前と言えば、ボクは26、7歳。

とうに分別がついていてもいい年齢だ。でも、ボクはそうではなかった。

原発反対運動は、やがて国に揉み消されてしまうのだが、少なからずボクは、原発には反対していた。でも、広瀬さんの口調には、賛同できなかったのだ。自分さえも、否定することは出来ない。全否定は好きではなかった。

これはもう、好き嫌いの問題だ。他人に自分の人生を強制されたくはない。







その頃、ボクは郵便局で働いていた。

働きながら、日仏学院で、フランス語の勉強をしていた。

ボクがフランスに行くようになったのは、それから間もなくのことだが、その時のボクは、とにかくこの日本というどうしようもなく頑なで、マイノリティーの意見に耳を傾けず、文化らしいことには興味を抱かない国民性というものに、ほどほどうんざりさせられていたところだった。

「こんなところに居たら、息もできない」

いや、息苦しくて仕方がない。

そう思っていたのだ。

警鐘と警告、現体制に対する痛烈な批判。そればかりではどうにもならない。広瀬協になんか染まりたくもなかった。

ぺしゃんこになりそうな自分を、開放させてあげたかったのだ。







東北の大地震が起きて間もなく、福島の原発被害が報道された。

テレビを眺めながら、ボクが思ったことは、広瀬隆と言う人の名前だ。

「そういえば、あの人はどうしているんだろう」

と思った。

最初は、名前さえも覚束なかった。

「広瀬」までは覚えていたのだが、名前が咄嗟には出て来ない。

「隆」と言う文字を思い出してすぐに、パソコンに向かった。

ひょっとしたら亡くなっているのかも知れないと思ったからだ。

でも、まだ御存命だった。

昨年には、本も出している。それも原発に関しての本だ。

「ああ。それじゃ、広瀬さんがまたテレビに出るのは、時間の問題だな」

と思った。

現に原発が水素爆発を起こし、放射性物質をまき散らしているとの報が入ったときは、どこかのテレビ番組に、広瀬さんが出てないことはないと思ったのだ。

しかし、何日がたっても、テレビに広瀬さんは出てこない。

ボクは、何日か、広瀬さんを探し続けていた。

ようやく見つけたのは、誰かのツイッターでだった。YOUTUBEで、「朝日ニュースター」とかいう番組の録画がアップされていたのだ。

そこで、ボクは広瀬さんと30年ぶりに再会を果たした。

何回かに分かれたYOUTUBEの番組を見ていて、歳こそとられ、少しだけ分別あるもの言いをしてはいるものの、広瀬さんの発言は、以前と何も変わっていないように思えた。

突然、タイムスリップしたような錯覚に捕らわれた。

まさに、ボクは、どうしようもない不安を抱えた1980年代初頭に舞い戻ったかのようだった。

でも、そこに親しい人たちの顔はどこにもないのだ。

父や母や叔父。

ことごとくみんなこの世を去っている。

確実に30年の月日が経っていた。

パラレルワールドにいるようだった。

それでも、日本という国のどうしようもなさは何一つ変わってはいなかったのだ。

いや、むしろ悪化の一途を辿っているようにも思えた。

「明日なき世界教団」だなと思った。

「放射線の値をいくら計っても意味はないんですよ。放射線ではなくて、放射線物質があたりに飛散しているのが問題なんですから!!」

繰り返す広瀬さんの言葉だ。

その言葉を聞いて、ボクらは、どうしたらいいんだろう…?

「中国から風に乗って、死の灰が降る」

中国で核実験が行われた時、そんなニュースがテレビで報じられたことがあった。

ボクが中学生の頃だったように思う。

雨には放射性物質が含まれていると言う意味だ。

ボクらは少しの雨でも帽子を被ったり、傘をさしたりしていた。

でないと禿げになるとか云々。

そんなまやかしでも、当時は信じないではいられなかったのだ。

だからボクは未だに、雨が降ると、帽子を被ったり、傘をさしたりしている。

それは、雨に濡れてはいけないものだと覚えこまされていたからだ。

でも、今、水不足で、雨水や雪、川の水を汲んで、避難地の人たちは食器を洗ったりしているらしい。

それをテレビカメラが報道している現実には、言葉もない。



答えがない疑問だということはよくわかっている積りだが、ボクらは一体、どうしたらいいんだろう?

それでも生きていくために、家族を養うために金を稼いでいかなければならず、その為には、良心に背くこともしていかなければならない。

ボクは、「明日なき世界教団」の一員になる気はないのだ。

2011/03/17

一日、部屋で、ぼんやりとテレビを見ている。

最近はずっと、この調子で、何も考えることもしなくなってしまった。

考えるんじゃない! と誰かが言ってるような気がしてくる。

何もする気になれないので、このブログも、アップしないだろう。

2011年3月4日金曜日

ライブの告知です!   

中川五郎さんと、亀有キッドボックスさんの好意により、また、ミュージシャンの桜井さんの好意により、人前で何度か、歌いましたが、次回のライブで、しばらくお休みしようと思います。
数か月か、一年か、二年か。
いずれにしても、歌作りをしたいと思います。
もちろん、シナリオ作りも!!

ほんの数度のライブでしたが、お越しいただいたみなさん、本当にありがとうございます。
また、まだいらしてないかたは、ぜひ、次回、マンダラ2で会いましょう!!






3月11日(金) 吉祥寺「MANDA-LA2」 http://www.mandala.gr.jp/man2.html



「吉祥寺で逢いましょうvol.3」




出演


小林政広

桜井明弘




開場18時半 開演19時半


チャージ 前売り2800円、当日3000円(オーダー別)

10月19日に思うこと、

  総裁選が大騒ぎの果てに、終わったかと思ったら、今度は、衆議院解散で、選挙だ。31日投開票だから、あまり日もない。 議員たちが、国会から引き上げる様子を見ていると、次の選挙に向けて密かに闘志を燃やしているのか、あきらめているのか、うつむき加減で、深刻な表情を浮かべている。 ...