2011年11月23日水曜日

気概、

映画は、気概だなあとつくづく思う。
それしかないようにも思う。
それも、生半可な気概では、とても太刀打ちできない。
研ぎ澄ました刃を手に、満を侍して鋭く切り込んでいく気概ではなく、土壇場に立ち、前後を見失いながらも、刃こぼれした刃を頼りに、一局に集中する気概。
画に現れるのは、そんな必死の気概のみだ。

2011年11月4日金曜日

『日本の悲劇』②

『日本の悲劇』を撮るまで『切腹』は再見しないと決めていた。
何度もDVDに手が伸びたが、観たら絶対に影響されると思ったから観なかった。
撮影が終了して、偶然のように、この映画を観た。
UTUBEで、いくつか音楽を聴き、それから映画の予告編を観ていったのだが、ふと目に入ったタイトルが『HARAKIRI』だった。
9つのファイルに分けられていて、深夜、何の気なしに観たのだが、1から2に、2から3にと進んで行って、ついに9まで観てしまった。
それでも止まらず、また1に戻り、9までを、繰り返した。
ほとんど一日、『HARAHIRI』を見続けたことになる。
もちろんボクは、『切腹』のDVDを持っている。
どこへ行くにもこのDVDだけはバッグに入れておいて、いつでも観られる状態にしてあるのだ。
しかし、観なかった。
今、ふとしたことからの映画を再見して、途方に暮れている。
いや、愕然としていると言った方がいいのか…?
共通点があまりに多いということにだ。
数年前に観たこの映画に、ボクはどれだけ影響されていたかということを、思い知らされたのだ。
映画が、人の心の底に根深く残るものだということを、改めて知った。
そして、『切腹』の主演をつとめた仲代達矢氏との映画作りを経験したことへの奇跡的な幸運と幸福に改めて酔いしれている。
完成は、一月の予定だ。
お客さんが、未だかつて見たことのない仲代達矢氏に出会えることを保証するとともに、『切腹』には遠く及ばないまでも、人の心の奥底に根深く残る映画になることを願ってやまない。

2011年11月1日火曜日

『ギリギリの女たち』のこと、

知ってる人は知ってるのだが、ボクはこの映画のもとになった脚本を随分前から持ち歩いていた。キャスト欄には名前も入っていたが、実現することはなかった。
こんなことは良くあることだったが、その時は、自主制作でも作る積りでいたので、製作を中止した時は、随分と落ち込んだ。
キャスト欄に名前を並べた人たちにも申し訳ない気持ちだった。
この脚本は、以来何年か寝かせた。いや、すでに頭の中から、この映画のことは消し去っていた。
コメディー色の強いこの脚本を、ボクは大好きだったが、その頃のボクが作るには軽すぎた。これではどこの映画祭に出しても、鼻も引っかけてくれないだろう。映画祭に出品することが難しいということは、国内での上映にも大きく影響してくる。作ったは良いけど、映画館に掛けられない可能性もある。
今では、そのような映画が一本ぐらいあってもいいかなと思うが、当時はとてもそんなわけにはいかなかった。金の余裕がないのは、今でもだが、それ以上に精神面でも余裕がなかったのだ。フイルムで撮影するとなると、最低でも、1千万は掛かる。遊びや道楽でできるものではないし、全く回収できないのは、困る。
作ったはいいが、ボクらの生活ができなくなるからだ。
年金生活者なら、月7万はもらえるから、都営住宅にでも入れば、生きてはいけるのかも知れないが、まだボクは、その頃、50になったばかりだったし、年金がもらえるわけもない。
つまり、『ギリギリの女たち』は、一度は堕胎した罪深い脚本なのだ。
この脚本を再度、蘇らせようと思ったきっかけは、FACEBOOKにあった。
ある日、Kさんの書かれた石井裕也監督の映画のDVDの記事を見て、低予算で作ったとあり、ボクもそのような映画を一本ぐらい作ってみようという気になった。
それで、Kさんに連絡した。
すると、Kさんも、直ぐに乗ってきて…といった具合で、それからはとんとん拍子だった。
とはいえ、映画を作るといっても、企画がない。
いや、企画は掘り起こせば何かあるに違いない。
問題は、別にあった。
低予算映画というのは、ボクも作ってはいるが、それでも、前に書いたように1千万は掛かる。
フイルムで撮る以上、それ以下では不可能だ。
では、ビデオか?
ボクが、デジタルで映画を撮るのか?!
そこでつまずいてしまった。
デジタルと言っても、様々な機材があり、ピンからキリまでだ。
そのキリのほうで、映画を作るしかないのだが、ドキュメンタリーならまだしも、フィクションの映画だ。
それでボクは随分と若い監督たちの映画を観まくったのだけれども、どれもしっくりとは来ない。
観れば観るほど、ボクの作る映画とはかけ離れていて、とても参考になるようなものではない。
撮影のことは一度、棚に上げて、脚本作りに入った。
『ギリギリの女たち』は、ワンセットのドラマだ。
古い一軒家が必要だ。
それで気仙沼市唐桑にある我が家を使うことにした。
この家は、この映画に使うためにとってあった家でもあった。
『ワカラナイ』でも、『春との旅』でも、この家を使ったが、撮影に使ったことはなかった。
主に、スタッフ・キャストの宿泊や食事場所として使っていたのだ。
数年前に部分的に改装してしまい、かつての家は、もうそこにはないが、それでも、震災の影響で、しばらく尋ねることができなくて、庭の草は伸び放題になっているだろう。
瓦が落ちてるのを、グーグルアースで確認して、ここで撮ろうと決めた。
しかし、被災地だ。
家のある地区は、高台なので津波の影響はなかったが、周りは見るも無残な光景になっていることだろう。
知り合いで亡くなった人たちもいるに違いない。
そんなところで、映画が作れるのか?
しかも、コメディー仕立てのフィクションが?!
本当に、悩んだ。
Kさんの方は、そんなことはお構いなしだった。
むしろ、被災地を舞台にするということを、映画の肝にしようとまで言い出して、慌てた。
そういうのは苦手だ。
第一、品がないじゃないか。
更に悩んだ。
しかし、話は進み、キャストも揃い、いやがおうにも作らざるを得ない状況になっていった。
数度の脚本改訂でも満足できず、ボクは現場に入ったものの、直ぐに盛岡のホテルに逃げ込み、何とか脚本を直そうと試みた。
しかし、盛岡への道の途中で目にした陸前高田市の悲惨な光景を見たものだから、脚本に向かっても何も手につかない。
そこでボクは、姑息な手段をとった。
瓦礫の山などは一切、撮らないことにしようと心に決めた。
撮っても、ほんの数秒で済ませる。
そのかわりに長回しで、その日、その時の臨場感を出すこと。
これは、映画なんです。被災地を舞台にしているフィクションの映画で、出て来る女優さんたちは、とにかく役を一生懸命演じてますが、あくまで映画で、作り話を、真剣にやってるだけなんですよ!
映画を観て、そんなことが伝わるような作りにした。
出来れば、撮影しているスタッフも入れ込んで、撮りたかった。
被災地で映画を撮ることがどれだけ後ろめたいことなのかを、作り手だけでなく、観る側にも伝わるような作りにしたかったのだ。

被災地での撮影に限らず、映画作りは、どこか後ろめたい行為だ。
まっとうな人間のすることではないだろう。
こそこそと隠れて、人目につかないように撮影したい。
それは、いつも思うことだ。
でも、いざ撮影となるとそんなことは一切忘れて、傍若無人に振る舞う。
それも映画作りだ。
でも、今回は、違った。
いや、今回は、それではいけないんだと自分に言い聞かせて、撮影した。
それが、完成した映画に出ているか否か?
とにかく、手っ取り早く撮影し、その場から退散する。
出来たところもあるが出来なかったところもある。
それでも、被災地に対する慎み深さだけは、残っているはずだと思うが、どうだろうか?
それだけが気がかりなことだ。






東京国際映画祭にて、


今日で東京国際映画祭が終わる。

長いようで短い9日間だった。

自作の出品に加えて、コンペの審査員という大役を仰せつかって、14本の映画を観つつ、自作の上映のQAにもでかけた。

へたばっている暇もないほどだった。

14本の映画を観ながら、自作の映画『ギリギリの女たち』のことが気になって仕方がなかった。

そりゃあそうだろう。

心血注いだ映画のお披露目だ。気になるのが当たり前だし、客の反応が知りたいのは、当然のこと。

とくに今作は、色々と冒険をさせてもらったので尚更だ。

それら冒険が、どう受けいられるのか、知りたくてたまらない。

観客に拒否されて、あえなく敗退の憂き目に会うのかもしれない。

ロケ地が被災地だと言うことも気になる。

極力、神経を使って撮影に臨んだつもりだが、それが観客にはどう映ったのか?

心配を通り越して、恐怖心さえ覚えた。

しかし、そんな危惧も取り越し苦労だったようだ。

映画はお客さんに受けいられたようだからだ。

上映が終わって、スタッフやキャストと乾杯をして、その後、中村優子とそのご主人とうちの家内とで食事をして別れた後は、久しぶりに心地良い眠りが待っていた。

夢も見なかった。

そして、今日は、映画祭最終日。

クロージングセレモニーがある。

ボクは、受賞者の名前を読み上げなくてはならない。

ボクは、心から、その人の名前を読み上げるのを、光栄に思っている。

恐らくボクより歳若いその人の作品を観たとき、ボクは、「ああ、この人の作品と出会うために、映画祭の審査員になったんだな」と思った。

人と同様、映画もまた、出会いだ。

そして、映画祭の審査員として、この映画と出会ったことは、まだまだ悲観的になることはなく、映画に希望を持って臨めることを教えてくれた、かけがえのない一本だった。

2011年10月9日日曜日

『日本の悲劇』 

仲代達矢さんとの二度目の仕事が、すすんでいる。
『日本の悲劇』と題するこの映画のシナリオを、ボクは遺書を書くような気持ちで、書き綴っていった。
とてもこれは映画にはならないだろうなあと思っていた。遺書というものは、何度も書くものではないと思うし、書き直したりもしないものなんじゃないだろうか?
だから、一度書いて、「遺書としては不満が残るな」と思いながらも、なかなか直しの手がつけられなかった。
もちろん、誰にも読ませなかった。
年が明けて、ボクは引っ越しをした。
『春との旅』を撮ってから二年近くが経っていて、生活は困窮し、とても今の生活を維持することができなくなったからだ。
とは言え、映画は別の仕事を探すこともできなかった。
探したところで、体の調子を考えると、とてもつとまらないだろうと思ったからだ。
ならば映画なら作れるのかというと、そんなことはない。
つまりボクは、もう映画を作るのはやめて、近い将来は、障害者の年金でなんてか生きていこうと考えていた。
全くもって消極的な考えで、今思うとどうかしている。
もちろん、『日本の悲劇』のことも頭からは外れていた。
そうして、3月11日を迎えた。
その日、ボクはもうしばらくは歌えないだろうと予測し、最後のライブと銘打って、吉祥寺のライブハウスに向かおうとしていた。
飯田橋の喫茶店で、唄う曲順などを考えて、時間を潰していた。
その時、地震に遭遇したのだ。
結局、ライブには行けず、その夜は事務所で奥さんと二人で、雑魚寝した。
そして、翌日も東京に残り、翌々日に、大阪に戻った。

それからひと月は、部屋に籠った。
部屋に籠って、毎日毎日、テレビを見続けた。
毎日毎日、被災地がテレビに映り、家のある気仙沼市も毎日のようにテレビで見た。
言葉もなかった。
知り合いに何度電話しても電話は繋がらない。
そのうち、電話をするのが怖くなった。
何ら被災もせずにのうのうと生きている自分が後ろめたくもあった。
大阪にいることも何だか嫌だった。
すべてが嫌だった。
そんな時に、『日本の悲劇』のコピー台本を目にした。
書きかけのノートなどと一緒に床に積まれていたのだ。
取り出して、読みだした。
やはり、作品の体をなしていないと思った。
破り捨てた。

それから数日後、こんどはパソコンのメモリーに入っていた『日本の悲劇』と出会った。
いきなり、パソコン上で、手を入れた。
極端な食事制限をしていると数時間パソコンに向かっているだけで、もうへとへとになる。
そういうときは、ベッドに横になる。
知らない間に、眠っている。
毎日がその繰り返しだ。
30分デスクに向かい、数時間、ベッド。
一日の大半をベッドで過ごし、後は、食事をしているか、デスクに向かっているかだ。
考えのまとまらないまま、指だけは、文字を打ち込んでいく。
本当に薄い台本が、2時間にはなるだろう脚本に変わった。
それからボクはこの脚本を、一度も読み返すことなく、仲代さんに送った。
返事は、直ぐに来た。
「ぜひ、やりましょう」
とのことだった。
それから半年、この映画は撮影に突入することになった。
うんざりするほど長い時間だった。

今、ボクは、この映画を自分の遺書だとは思っていない。
遺書とするには、途方もない金がかかってしまった。
遺書なんてものは、紙とペンで書くもので、もちろん映画にするもんじゃない。
しかし、だからと言って、この映画が、どれだけの人に観てもらえるのか?
多分、ほんのわずかな人にしか観られない映画になるんだろう。
いや、むしろ、ボクは、ほんのわずかな人にしか観てもらえないような映画にするつもりだ。
ヒットもクソもありゃしないのだ。
どうでもいい。

持てる力も、もうわずかしかない。
才能はとっくに枯渇している。
野心も欲もなくなった。
自分が観たい映画を作る気もない。
ただ、作るだけだ。

この映画が完成し、仲代達矢演じる不二夫の死に様に、滑稽さを見出してくれたら、幸いだ。


2011年7月18日月曜日

2011/07/18





ライブ、二本が無事、終了しました。
来てくれた方々、本当にありがとうございました。
また、仲代達矢さんからは、もの凄い花が届いて、感謝感激です。
しばらく、人前で唄うことは避けて、自分の音楽を、探ってみようと思っています。
もちろん、今までも、探り続けてきた訳ですが、まだ中途半端で、自分自身が何とも、納得がいかないところがあります。
躰のこともありますので、旅に出て唄うことも出来ないでしょうし、狭い範囲でしかなりたたないとは思いますが、来年のある時期からは、定期的に続けられたらと思っています。
いずれにしても、映画作りと同様、唄う事は、一生の仕事と思っています。
どちらも、娯楽とかエンタテインメントとか言われるものとはほど遠いものですが、どうか皆さん、末永くお付き合いのほど願います。

皆さん、本当にありがとうございました。

2011年6月20日月曜日

ライブの告知です、






7月に、二本、ライブを行います。
マンダラ2 のライブは311の日に行う予定だったライブです。
どうぞ皆さん、お誘い合わせの上、お越し下さい。


7月15()
[吉祥寺で逢いましょうvol.3ー真夏の仕切り直し編ー]
桜井明弘(vo.g)
小林政広(vo.g)
ゲスト:中川五郎(vo.g)

18:30/19:30 ¥2800/3000+drink 前売券店頭発売 6/15


吉祥寺マンダラ2



716()
桜井明弘
小林政広
★のんびりだらだらと行きたいと思います。これにて、ボクはお休みします、

亀有KID BOX
http://ip.tosp.co.jp/i.asp?i=kidbox

5



中国行は初めてなので、ほんとうに期待していたのだけれども、映画祭ならまだしも、多分に政治色の濃い今回の「日中交流映画週間」。果たして、自由に歩き回れる時間がどれぐらいあるのか? と危惧していた。
渡された予定表を見る限り、到着した翌日の午前ぐらいは、何も行事がはいっていないので、その辺しかないかなと思っていたが、実際、到着して、迎えの車で、ホテルにチェックインし、アテンドの人から、
「食事はルームサービスでおとりください」
と言われて、やはり、外での食事は無理かと落胆した。
車でホテルまで来る間に、まだ開いている店は沢山あったのだが、ホテルの近くは薄暗かったから、外に出るには、時間も遅く、観念して部屋に入ったのだが、その部屋が何とスイートで、バカでかい。
スイートには、以前もどこかで泊まったことがある。
それも、その時は、一人だったので、腰を抜かしたのだが、本当に腰を抜かしたわけではなくて、腰を抜かしそうなほど、感動したということ。
でも、今回は、とにかく飛行機の旅が長かったのと、スーツケースの一件がまだ片付いてないのとで、感動する余裕もなく、ソファーに身をゆだね、一服し、それからルームサービスを注文した、
「美味いね」
などと言いながら、来たものを食べ、下着もないものだから、風呂に入る気も起きず、
「まあ、明日でいいか」
となり、ボクはさっさとベッドにもぐりこんだ。
冷たいシーツが気持ちいい。
外は、凄い雨だったが、(稲妻が走っていた)今は小降りになったようだ。
少しだけエアコンを掛けて、目を閉じた。
考えなくちゃいけないことが山ほどあるが、こういう日は、考えたって何かまとまるもんじゃなく、
「んーん、あれだけどどうすっかなあ…」
などと言ってる間に、眠りについてしまった。
こちらに来ているゲストの人たち、誰ともまだ会っていない。
それが幸いしてか、本当によく眠った。
6時間ほど、熟睡した。

朝食は、二階のレストランで、ビュッフェスタイルの食事。
白いご飯はどこを探してもない。
その代わりに、お粥があり、トッピングは好きなものを入れられる。
洋食も充実しているけど、勿論中華も凄い充実ぶりだ。
その気になれば、一日分を腹に収めることも出来るが、今日は、昼も夕飯も予定にあるので、いつもの朝ごはん程度で済ました。
でも、幾分多めかな?
トーストも食べたし、フルーツも食べたからな。
部屋に戻ろうとすると、奥さんが、
「ちょっとその辺散歩してくる」
と言い出す。
「ああ、良いよ」
と言えば良かったものの、なぜかその観光気分が許せず、
「何を言ってる。まだスーツケースだって来てないのに」
と、ボクは部屋に。
奥さんもしょんぼり散歩を諦めて、部屋に戻って来た。
しかし、これからが大変だった。
奥さんの逆襲が始まったのだ。
今まで溜まりに溜まっていた鬱憤が、一気に爆発したのだ!!
…、
…、
…、
…、
ここからは、詳しく書くわけにはいかないので、ご想像にお任せするが、打ち合わせの時間ぎりぎりまでの、奥さんの逆襲に、ボクは、貴重な午前中の時間を、ほとんどバスルームに篭ることになってしまった。

ロビーでの打ち合わせを済ませたころ、空港から連絡が入る。
スーツケースだ!!
無事、北京空港に届いたという。
そして、目下、こちらのホテルに向かっていると!!
それでようやく奥さんの機嫌も直り、ボクらは、ロビーでスーツケースの到着を待った。
こうして、ボクらは晴れてスーツケースと対面することが出来たのだが、そのスーツケースの変わり果てた姿には、言葉を失った。
あちこちに亀裂が入っているのだ。
一瞬、誰か他の人のスーツケースじゃないかと思ったほどだ。
「何だこれ」
ボクはもう、とことん呆れ果ててしまった。

とにかく着替えながら、スペインの事を思い出した。
スペインには三度目で、首都のマドリッドには経由地として利用する以外に、滞在したことはない。
初めてスペインに行ったのは、カナリア諸島のラスパルマ島で開かれた映画祭だ。
そこで初めてスペイン人と接したのだけれども、フランス人やドイツ人やベルギー人とは全く違った、これぞラテン民族!! といったラフさがある。ラフさとは、いい加減さとも言い換えられる。
ラテンの国としては、ブラジルの方が先だが、ブラジル人は、特に映画祭のスタッフのような人たちは意外なほどにきちっとしていて、時間にも正確なのだ。
しかし、スペイン人は、いけない。
とにかく何でも安請け合いをする。
「良いよ、良いよ、ノープロブレム」
この言葉がいけない。
「ノープロブレム」
が口癖の人間にロクな奴はいない。
プロブレムの塊りで、何がノープロブレムなのかすらわかっていない人たちなのだ。
確かに、それが良い方に働くこともある。
いや、滞在中は、このアバウトさが、とても快適に思えてくる。
しかし、いざとなった時には、全てが逆転する。
「そんなの平気さあ、ノープロブレムさあ」
などとシラッとした顔をして、問題山積の渦中に、押しやる。
その時、とうのご本人はいないのだ。

バスク地方のヒホンと言うところにも行ったが、ここは、もう少し様子が違っていて、「ノープロブレム」と言うほどのプロブレム自体がない。
初めから何ら問題はない。
自分の映画の上映時以外、ただただ、同じことの繰り返しで、そのまま帰国の途につける。
同じことの繰り返しとは、こういうことだ。
朝起きると、ホテルのレストランで昼食。
部屋に戻って、休憩。
一時を過ぎると、迎えが来る。
その日の昼食だ。
歩いて、レストランへ行く。
そのレストランには、三々五々、ゲストたちが集まる。
ワインとビールがふるまわれ、好きなものを注文し、待つ。
一時間はざらだ。
へたすると二時間待つ。
待っている間、何をしているかと言うとひたすら話すのだ。
ゲスト同士や映画祭ディレクターを交えてや、映画祭スタッフと、とにかくありとあらゆることを話す。
喉が枯れるまで、話す。
ワインとビールは、制限がないから、グビグビいく。
グビグビいけば、いった分だけ話す。
ボクのように普段寡黙な、そして人見知りする人間は、とにかく居場所がないほどだ。
仕方がないので、飲むのに専念するのだが、待てど暮らせど、料理は来ない。
レストランに入ったときは、まだ朝の食事がこなれてないので食欲もそれほどないのだが、昼のレストランに入って、何時間かが経つと、もう空腹状態となる。
レストランの中は、会話会話会話。
とにかく話声で、充満している。
そして、ようやく食事の皿が来る。
凄まじい量の肉やら野菜が盛り付けられている。
ほとんど、見ただけでお腹が一杯になる。
で、端っこを少しだけ食べて、おしまい。
「さ、帰るか」
と立つ。
するとそれを見ていたスタッフが、スタスタと近づいてきて、夜の食事の案内を始める。
「今夜は、7時から、こちらで夕飯を摂ってください」
とプリントアウトした紙を渡される。
「あ、はい。でも、7時って言うと、今、5時だから、二時間しかないですよね」
「ええ」
「二時間後に、もう食事?」
「ええ」
ケロッとした顔で言われると、答えようがない。
「打ち合わせもしますから、ぜひ、お越しください」
「打ち合わせ」
「ええ」
もう散々しただろう!!
と怒るわけにもいかない。
「わかりました」
と言って、千鳥足で、ホテルへ戻る。
場合によっては、ホテルの近くのカフェで、コーヒーを飲んで、酔いをさます。
ホテルに戻り、映画祭のプログラムに目を通したりしていると、もう、7時だ。
「いけない。行かなきゃ」
と言うことになる。
レストランを探して、20分ほど遅れて中に入ると、もうそこは、ほとんど泥酔状態のゲストたちで盛り上がっていて、矢継ぎ早にワイングラスにワインが注がれ、隣の見知らぬゲストに、
「カンパイ」
などと言われて、
「カンパイ」
と言い返して、飲む。
二杯が三杯。
三杯が四杯。
三時間はあっと言う間だ。
午後10時。こちらではこの時間が夕飯開始の時間らしい。それは、グラナダでも一緒だった。
しかしボクたちは外国人だ。しかも7時の集合ときた。
映画祭関係ではない一般客が、店に押し寄せ、店内は、狂騒と化す。
ボクたちは、タパス何品かで、三時間飲み続け、しかも、一般客の参入によって、更に盛り上がる。
会はいつ果てることもなく続く。
メインディシュが来るころには、吐きそうなほど飲んでいる。
とてもとても、これから500グラムはある肉なんか食べられたもんじゃない。
「どうした!! どこか体調でも悪いのか?! 食べろ!! どんどん食べろ!!
うつろな目のゲストが、ボクを叱り飛ばす。
近くの映画館で、自作の上映があったのだろう。
興奮状態で、ワインをグビグビやりながら、
「飲めよ、飲めよ」
と大騒ぎだ。
這う這うの体でレストランを抜け出し、這うようにしてホテルにたどり着き、トイレに直行して、吐く。
それでも目が回っている。
グワングワンと回っている。
ベッドに倒れこんで、目を閉じても、眠れやしない。
「ワアーッ!!
と叫ぶ。
暴れる。
少しだけ、発散する。
水を飲む。
そこらじゅうにあるミネラルウオーターを残らず飲む。
そしてまたトイレ。
人心地ついたときには、午前3時を回っている。
眠ったと思ったら、7時の目覚ましで起きる。
下のレストランで、朝食。
黙々とパンを齧っていると、映画祭の女の子がボクを見つけて近づいてくる。
「昨日は良く眠れましたか?」
「まあ」
「これが今日の昼食のレストランです」
紙を渡して、ニコリとする。
「…」
ボクは迷う。
今日は、昼飯を抜こうかと思っていたからだ。
「必ず来てください。打ち合わせがありますから」
「しかし」
「ノープロブレムですよー」
女の子はもう一度、ニコリとして去っていく。

この繰り返しが、数日続いた。
いや、一週間だったか。
とにかく判で押したようにこのレストラン巡りが、毎日繰り返されたのだ。
確かに、問題はないのだ。
食事の心配をすることもない。
ただただ、ワインと肉を食べ続け、会話の中に飛び込んで、ああだこうだと映画の話ばかり。よくもまあ、こんなに自作の映画について話す事があるものだと感心するのだが、それぞれが、同じ話を酔いに任せて何度も何度もするもんだから、そのうち、英語の判らないボクでも、
「ああ、また、あの話か」
と顔をしかめる有様だ。
しかし、肝心の映画の上映の方は、上映後の質疑応答もそこそこに、
「レストランに行ってください!! もう、食事が始まってます!!
と追い立てられるで、走ってレストランに向かっているボクは、一体何なんだろうと思わないではいられないのだ。
バスクの映画祭とは、こういうものなのか…。
グラナダ行きが決まった時には、あのヒホンでのことが思い出されたが、ボクの取り越し苦労だった。
バスクとアンダルシアは全く文化が違う。
言語も違う。
グラナダでは、レストランでの食事会など一度もなかったし、狂ったような会話の洪水もなかった。
少し淋しい気もした。
結局、事務局がどこにあるかも判らずじまいだったのだから…。

北京での上映会は、とどこおりなく終わった。
もちろん、ボクらは、上映前の舞台挨拶のみで、別会場へ。
そこで、凄まじいセキュリティーの中、会見などがあり、直に温家宝さんの顔を拝見することも出来た。
夜は、松竹の大谷会長の主催する夕食会にも出席した。
ボクの人生の中で、もっとも異質の、唯一無二の一日だったことは確かだ。
不幸にも震災の被災地となってしまつた気仙沼市。
それを映画に映したのがきっかけだったとしても、中国で『春との旅』が上映されたことは、喜ぶべきことなんだろう。
でも、何だろう、この空しさは。
もう、梅雨で蒸し暑いというのに、ボクの中では空っ風が吹いている。

夕食会も終わりに近づいたころ、それまで、山田洋次監督から話しかけられたことはあっても、緊張していてロクに答えることも出来ずにいたボクは、酔いもあってか、
「ボクは親父と子供のころ、山田監督の映画を良く観に行ったんですが、『馬鹿が戦車でやって来る』は、素晴らしかったですね!! どうしてああ言う発想が生まれて来たんですか!!
とお聞きした。
山田監督は、一瞬意外そうな表情を浮かべてから、
「あの映画が好きな人がたまにいるんですよね。あれは、音楽を担当した団伊玖磨さんのアイデアなんですよ」
とおっしゃった。
ボクは調子に乗って、今度は寅さんのことをお聞きした。
「寅さんのアイデアの基は、マルセル・パニョルの『マリウス』だと山田さんが随分以前に何かで書かれていたのを拝見したんですが、本当ですか?」
「寅さんの原型は、落語なんだけど、パニョルの『ファニー』も加味されてますね」
「そうですか。ボクは寅さんから、パニョルに行って、30年前ですが、『マリウス』や『ファニー』の舞台となったマルセイユを旅して、あの居酒屋の女の子がお百度参りした観音様にも行ったんです。海の見える丘の上にある観音様に」
会は閉会で、話はそれで中断してしまったのだが、映画の集まりで、唯一交わした映画の話が、これだけだったのは、幸福なことだったのか、それとも不幸なことだったのか?
ヒホンでの、会話会話会話の会話漬けも英語が話せないボクとしては困ったものだが、映画の集まりで、映画の話が皆無と言うのも、淋しい限りだ。

あと一つ、7月にボクはNYへ行く。
ミュージシャンの桜井さんが向うの人と話してくれて、『春との旅』がジャパンソサエティーで上映されることになった。
それで、一応、ボクの海外の旅は、終わることになるだろう。
もう、行きたくても行けないのだ。
14歳で映画監督になりたいと思い、トリュフォーに憧れて、フランス行きを希った。
27歳で、郵便局を辞めて、パリへ単身向かった。
それから何度も何度も映画を諦めようとした。
でも、その度に、トリュフォーの映画が、スコセッシの映画が、ベントンの映画が、ダルデンヌ兄弟の映画がボクを映画に踏みとどまらせてくれた。
中でも、やはりトリュフォーの映画が、ボクを映画作りへと導いてくれたのだ。
パリには何度も行ったけれども、既にトリュフォーが他界した後の事だ。
ボクにとってのパリへの旅は、トリュフォーの亡霊を探し求める旅だったのかも知れない。
しかし、もう、それも、終わらなければならないのだろう。

20数年前、NYに旅したことがある。
それも、映画にまつわる旅だった。
ウディ・アレン、スコセッシ、そして、チミノ。
ブロードウェイを歩き、チャイナタウンを歩いた。
ボブ・ディランがコンサートを開いたマジソンスクウェアーガーデンから、泊まっていたアルゴンキンホテルまで、深夜に歩いたこともあった。
『真夜中のカウボーイ』を思い出したりしながらね。

パリ経由のグラナダ行きが、ボクにとっての何度目かのトリュフォーとの訣別の旅だったとすれば、今度のNY行きは、アメリカ映画への訣別の旅と言うことになるんだろう。

では、日本映画への訣別は?
映画への訣別は?
それが北京だったとは、思いたくないが、山田洋次監督にお目に掛かり、『馬鹿が戦車でやって来る』の話をしたときに、その答えは出たのではないかと今は思ったりする。

最近、ベッドに入ると、親父や、お袋の顔が浮かぶ。
風に煽られている顔だ。
髪の毛が逆立っている。
いい笑顔だ。
そして、二度と会えない顔だ。
いや、間もなく再会できるという事なのか…。
その映像が、『大人は判ってくれない』のシネマスコープではなく、モノクロスタンダードサイズなのに驚いている。
ボクの映像の原点は、そんなところにあるのかも知れない。



遅くなりましたが、グラナダ国際映画祭「CINES DER SUR」にて、『春との旅』により、シルバーアルハンブラ賞(監督賞)を受賞しましたことをご報告します。
皆様、ありがとうございました!!

2011年6月16日木曜日

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オルリーに着いて、ボクらは走った。

疾走といった感じ。

もちろん、ボクは、足が攣るのが怖くて、それほど速くは走れなかったけれども、気持ちの上では、まさに、疾走だ。

突っ走り、飛行場のカウンターに行き、無愛想な女の子に、顎で、「向こう」とか言われて、今度は、荷物取扱いのカウンターへ。

しかし、そこは、長蛇の列。

ボクは意気地なしだから、奥さんに、「行け!」と言って、たまたまカウンターに入ってきた男を掴まえさせた。

ボクは少しだけフランス語ができるが、奥さんは全くなので、こういうときは、奥さんの方がいいのだ。

手荷物の預かり札を見せて、英語と日本語で、とにかく、「急いでる!!」を繰り返したんだと思う。

相手も顔色を変えて、中に入って行った。

しばらくして戻って来て、

「あなたたちの手荷物は、ヒュースローに行ってる。そこから、JALの飛行機に載せる予定だ」

と言うのだ!!

「ええ?! そ、それじゃ、ここに俺たち来なくて良かったってことじゃないかよ!!

ムカッと来た。

誰に対して腹を立てているのかと言うと、それは、CDGJALの女にだ。

「あのヤロー!」

と、待ってもらっていたタクシーに乗り込み、ボクは言った。

「スーツケースは、この札の通り、成田に向かってるってことじゃないか! どうしてくれるんだ!! 飛行機に乗り遅れたら、誰が責任をとるんだ!!

ボクはタクシーの後部席で、暴れださんばかりの勢いだ。

奥さんは、

「怒らないで。絶対に、空港に着いても、あの人を怒鳴りつけちゃだめよ」

と繰り返す。

「いやしないさ!! あの女は、きっともういない! それでボクたちは飛行機に乗り遅れて、一晩をCDGで過ごすんだ。北京もキャンセルだ。もう、滅茶苦茶だよ!!

血糖値と血圧が一気に上がるのを感じた。

きっと血管の中の血は、ざら飴状態になっていることだろう。

タクシーは、いくつかの渋滞にあいはしたが、CDGには、離陸30分前に着いた。

奥さんが、運転手さんにチップを多めに渡したいと言い、10ユーロ札を出したので、「いや、待て待て。5でいい」

とか、この場に及んで、渋るボクを、軽蔑した眼差しでにらんだ。

5ユーロのチップだって、立派なもんだ。昔はともかく、今は、カフェに入ったって、チップを残していく奴なんか、見た事もない。もちろん、サービスコンプリだから、基本的にチップは必要ないのは昔からだけど、通訳とかがいると、必ず、「ここは、3ユーロお願いします」なんて言うのだ。

「お大尽じゃないんだぞ!!

がボクの口癖だったことがある。



案の定、JALのカウンターには誰もいない。

ボクたちは、ゲートに入り、パスポートチェックを受け、持ち物検査へと進む。

そして、走って、搭乗口へ。

するとどうだろう。

そこに、ボクらを見て、唖然としているJALの女がいるではないか!!

「あ、来た…」

と意外そうな顔で、その女は呟いた。

そう、確かに、その女は、

「あ、来た…」

と、意外そうな顔で、呟いたのだ。

「来たよ、戻って来たよ!! 何とか、この飛行機に乗ろうと思ってさ!! タクシー代、100ユーロとおまけに、5ユーロのチップまで払って、舞い戻って来たんだよ!!

と言った。

いや、言わなかった。

ボクが言うより先に、奥さんが、何だか、べらべら始めてしまったので、ボクはこのセリフを、口の中で毒づいたにすぎない…。



と、言うわけで、予約していた飛行機には乗ることが出来たが、疲労困憊。

搭乗して、シートベルトを着けるなり、眠ってしまい、次に目覚めたのは、食事の時で、食べるなり、また、眠り、目が覚めると、することもないので、普段禁じている映画を観る。

案の定だ。

小さい画面での洋画は、吹き替えだし、どんなに素晴らしい映画も、駄作に見えてしまう。

ある人が、名作はビデオで観ようが何で観ようが、名作。

みたいなことを言っていたが、飛行機の中だけはいけない。

飛行機の中で観た映画で、良いなと思えたのは過去に一本きりしかない。

それは、『トレーニング・ディ』だが、それのみで、その日観たのは、『トゥルー・グリッド』。

何だこれは。

コーエン兄弟も堕落したなと呆れるばかりで、途中からは、眠ってしまった。

因みに、この映画は、DVDで改めて観ようと思っているけど、一度印象の悪かったものは、二度見ても、その印象が180度変わるものではないので、ほんとうに、しばらく時間を置かないと意味がないのだ。

他にも観たいものがあったけど、ここは我慢。

ワインを一杯飲んで、また寝た。



それでも何とか、成田に到着。

乗り継ぎには、五時間近くある。

五時間もだ!!

とにかく、スーツケースと対面して、それを、北京の便に載せて、どこかでビールでもやりながら一服と思っていたら、飛行機からタラップに一歩出た途端、ボクの名前の書かれた紙を持ったJALの職員が目に入った。

「小林様ですか?」

と訊くから、

「そうだ」

と言うと、

「スーツケースなんですが…」

と始まった。

一瞬、心臓がどきりと音を立てた。

「おいおい、また、何かあったのかよ」

悪い予感は、的中した。

「詳しくお話ししたいと思いますので、こちらへ」

と、一方に連れて行かれてしまったのだ。

「何よ、何なのよ!」

と後から出て来た奥さんが、ボクを呼び止める。

飛行機のトイレで、タバコを吸ったので、捕まったのか?! と疑っているのだ。

まさか。幾らなんでも、もう、そんなことはしない。

「何もしてないよ! ボクじゃなくて、スーツケースだよ」

と言うと、更に蒼ざめて、

「スーツケース?!

と素っ頓狂な声を上げた。



乗り換え通路の一隅にあるJALの事務所らしきところで、話を聞いた。

スーツケースは、未だにヒュースロー空港にあると言う。

どうして成田行きに載せてくれなかったのかと言うと、その便は乗客の手荷物で一杯だったのだと言う。

「スーツケースひとつの置き場所もないほどか」

とボクは、疑いの目を向ける。

確かに、震災後、被災地支援の一環で、手荷物の重量制限が緩和され、普段の二倍、三倍の手荷物を受け入れているらしいので致し方ないのだが…。

「で、スーツケースはどうなるんです」

「お客様は、このまま乗り継いで北京にいらっしゃるのですね」

「ええ。後、四時間ほどで出発です」

「ヒュースロー発の北京行きの便があるのですが、それに載せますと、明日の午前には、北京空港に着くことになります」

「それは何時です」

「10時半着です」

「困ったなあ」

ボクは考え込んでしまった。

北京での予定表を開いてみた。

昼から取材などがある。

そして、そのまま移動して、近くのシネコンへと向い、『春との旅』の舞台挨拶となり、更に移動して、博物館で、温家宝さんらとの会見となる。

その予定表には、スーツとあり、着替えの時間はないとある。

ジーパンとくたびれたTシャツ。それにジャンパーでは、失礼にあたる。

しかし、スーツは、スーツケースの中だ。

「買いましょう!!

奥さんは、とにかくその一点張りだ。

「しかし、空港でスーツなんか売ってるのかな」

ボクが呟くと、直ぐにJALの人が調べてくれて、

「中にはないですね。外に出ればあるかも知れないですが」

と答えた。

「外に出たら、また、パスポートチェックがあって、持ち物検査をしなくちゃならないんでしょう。それに、外に出たからと言って、スーツを売ってる店があるかどうか」

「ユニクロ」ならあるのを知ってるが、「青山」があるとは思えなかった。

しかし奥さんは、

「とにかく出ましょう!」

の一点張りだ。

しかし、ボクは、もう疲れ果てていた。

「どうでもいいじゃないか、スーツなんて。どうせこちとら、インディーズでずっとやってきたんだから、金がなくてスーツも買えないんだってことは、みんなわかってくれるさ。そう。ジャンパーがあるだろ、ジャンパーが。あれ襟元まで閉めれば、防災服に見えるよ。緊急の事態には違いないんだから、いざとなったら、それで行けばいいさ。だからとにかく、どこかに入って、ビールでも飲んで休もうよ」

「馬鹿なこと言うな!!

「何が馬鹿なことなんだよう!!

いつの間にかJALの人たちを前に、言い争いとなってしまった。

このままでは収拾がつかないので、

「冷静に考えよう。いいか? 冷静にな? …スーツを着て出席しなくちゃならないのは、温家宝さんも参加する会見からだろ? それまでは、私服でも問題はないはずだから。と、なると、一時だろ? 一時までに、スーツケースがホテルに届けばいいってわけだろ? 10時半に飛行機が北京の空港に着くんだから、2時間半もあるじゃないか。2時間半あれば、スーツケースはホテルに着くんじゃないかな」

JALの人が口をはさむ。

「そうですね。ホテルは北京市内なので、空港からは30分ほどです。渋滞に巻き込まれても、一時間は掛からないと思います」

「ですよね!それじゃ、来ますよね! 1時までに、スーツケースは」

「はい。ただし、ヒュースローからのJALの便に、スーツケースが載せられればの話なんですが」

「また、話を戻す!! どうして戻すの!! 今すぐ、指示してよ!! ヒュースローに電話してよ!!

「それがまだこの時間は、向うが夜中でして、電話連絡が出来ないんです」

!!

もう、どうしていいかわからなくなった。

綱渡りの連続で、神経がズタズタに切り刻まれていく思いがする。

「やはり、買いましょう!! スーツケース!!

「スーツケースじゃなくて、スーツだろ!!

「そう、スーツ!!

「待ちなさい!!

言った途端、目の前が、ホワイトアウトしていく。

「やばい、低血糖だ!」

ボクは叫んで、その場から退散した。

そして、

「待て!」

と、ボクを呼ぶ、奥さんを尻目に、ポケットからチョコレートを取り出し齧ると、通路を行き、免税品店が立ち並ぶ通路の一角のカフェに飛び込んで、ビールを注文、一番奥のソファーの席に腰を下ろした。

そして、とにかく、ソファーに体を預けた。

まだ心臓が高鳴っている。喉を通って口から外に、心臓を吐き出してしまうんじゃないかといった勢いだ。

「ああ、たまらない。これからまだ、俺は北京に行かなくちゃならないんだ。そして、温家宝さんらと一緒に写真に納まらなくちゃならない。それだけじゃないんだ。舞台挨拶だってしなくちゃならないし、それに、日本のメジャーな映画会社の人たちや監督と顔を会わせなくちゃならない。まだまだある。交流会もあるし、食事会だってある。そして何より困難なのは、翌々日の帰国の飛行機だ。朝一の便と言うことは、五時には起きなくてはならない。となると、前の晩はほとんど眠ることも出来ないということだ」

ボクの脳裏に、つい前日の早朝の、グラナダの悪夢が蘇った。

送りの車が来なかった、あの悪夢が…。

ボクはビールを一口、飲んだだけで、もうこれ以上飲む気力も失せて、再びソファーに体を預けた。


2017年の事、そして、18年に向けて、

一昨年に撮影、完成した「海辺のリア」の公開が、6月となり、(これは、完成する前から決まっていたのですが)それまでは、新作のことも考えずに、ただ漫然と公開を待つ日々を送っていました。 映画が完成してしまい、初号試写が終わってしまうと、奇妙な空気が漂い始めます。 何かを始めように...